歌集を読む/阿波野巧也『ビギナーズラック』

2022/06/25

歌集

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 阿波野巧也『ビギナーズラック』(左右社)を前に読んでいましたので、その感想を書きます。最近はタイムリーに歌集を読めていないです。

書籍情報はこちら。2020年7月の発行ですね。


阿波野さんは関西にいるころに歌会などでお世話になった方です。関西を離れて間もなくコロナ禍になってしまったので、なかなか当時お世話になった人々にお会いできていないのがさみしいですね。でも仕方ありません。僕が一方的に、いろいろと勉強させてもらっていたなという思いがあって、この第一歌集に関しても、技術的に勉強になるなと思う次第です。それはおいておいて、感想に移ります。


初読時、まず感じたことは、「ごきげん」をやっている歌集だなというものでした。この所感は再読を重ねるごとに薄れていくのですが、印象としてそれが強く焼き付いたのは、最初の歌のインパクトによるかもしれません(以下、引用はすべて『ビギナーズラック』からです)。

ワールドイズファイン、センキュー膜っぽい空気をゆけば休診日かよ

「ワールドイズファイン、センキュー」という言い回しが「ごきげん」であることは疑いがないでしょう。ただこの歌の主体がやっていることは、病院に向かっていること。「膜っぽい空気」というものも体調由来かもしれず、決してポジティヴな状況とは言い切れません。

その上で、その病院が休診日であることは知らなかったくらいの病院行きの覚悟でしかないという点を含め、どこか浮かれている感じがあります。どこまでいってもその浮かれ具合は病気由来の可能性があるのですが、少なくともこの歌は、主体のこの状況を否定しません。この「街の歩き方」を最初にインプットされながらの読書体験は、そうでもない歌がたくさんある中でも、「ごきげん」で引っ張っていく印象を与えます。

すれ違うときの鼻歌をぼくはもらう さらに音楽は鳴り続ける

これも「ごきげん」な秀歌だと思います。ここで「鳴り続ける」のが「ぼく」なのか「鼻歌を歌っている人」なのかは(その両方という観点を含めて)好きに読めますが、少なくとも前者の意味合いが強いとは思います。本来なら、すれ違ってなんとなく感じるだけの鼻歌。自分以外のすれ違う人は、もらわない。でも「ぼくはもらう」。映画のオープニングをやれそうな浮かれ具合があります。

こういった浮かれ気分を歌にするときに、阿波野さんがうまくやっているなと思うのが、自分の把握を・自分の言葉で・つむいでいるところです。肯定的な歌というものは、得てして読者の共感を得やすいものですが、読者に語りかけることを意識しすぎている歌は、押し付けがましくて反発したくなります。そういう、ごきげんMC型ではない、等身大の主体のうたいぶりが、読んでいて楽しいです。

国宝はたぶんなんだかやばいやつ ガラスケースに手が触れている

「たぶんなんだかやばいやつ」に12音も使っちゃって、な歌ですが、「そう思って、その通りうたった」思考のドライブ感が出ています。歌会なら、「たぶん」と「なんだか」はどっちかでいいのでは? 他に描写の言葉を入れるべきでは? みたいな添削をされる余地がありそうですが、まあそういう指摘が正しいことも多い中で、この歌がそうしてしまうことは、思考の捏造になってしまうと思うのです。また、「国宝」を前にした時の感情を正直に語るだけでなく、下句の質感でしっかりと「国宝」とのひんやりした距離感を紡いでいるのもさすがだなと思います。

けん玉のじょうずな子ども見ていたら大技っぽい技が決まった

それがなんていう技なのかは分からないけれど、「大技っぽい」とは思うし、その子供を「じょうず」と思うのです。この歌が切り出しているのは、すごい子供の景というよりは、主体とけん玉という概念の距離感であり、さらに言えば、そういう距離感ってあるでしょ? なのではないかと感じます。

『ビギナーズラック』は、編年体で描かれる主体の生活の変遷を、おおむね肯定的に切り取っていく歌集だと思います。口語で、なんてことない生活詠で、肯定的でというと、やはり永井祐の存在を思い浮かべますし、実際その影響はあるんだろうとは感じます。ただ、永井祐の歌が、別の記事で書いたように、他人の心はわかりようがないことを前提として距離を置いている印象があるとすれば、阿波野さんの歌はもう少し他者に対して開いている気がするのです。

それがどういったところなのかと言われれば、読んだ感じとしか答えられず、自分の言語化能力の限界を感じますが、一つ要素を挙げるとするならば、より「世界と接続されている感じ」でしょうか。「世界」というと大仰なので、たぶん「街」くらいでいいとは思いますが。

ぼくの気持ちは24時間営業のお店でぐちゃぐちゃに座ってる

この「お店」は心象風景として比喩的に読めますが、その一方で、現実の街のお店として飛び出てきているようにも感じます。もちろんこの歌のレトリックだけをもって、これが世界との接続だと言うのは苦しいとは思いますが、こういう傾向のうたいぶりはあるのかなという所感です。

胸の底までお釣りが落ちてくるような涼しい夜を歩いていった

「ちゃりん」という音が聞こえてきそうですが、お釣り(僕は自動販売機的なものと読みました)という社会の営為が、自分の身体に入り込んでくるようなレトリックも、街の中で、街とともに生きている様を感じさせるものだなと思っています。

『ビギナーズラック』に登場する町は京都と推測されることが多いながら、読者が住んでいる街にも置き換えて読解できうるものですし、なんというか、自分が暮らす街に接続しながら肯定的に生きるムードが、読者を心地よくさせる部分は大きいと思います。


さて、ここまでは「ごきげん」だとか肯定的だとかいった側面に着目してきましたが、『ビギナーズラック』はセンチメンタルで、エモーショナルな歌集でもあると思っています。それは主体が主体自身に覚える感情としてもそうですし、相聞的に登場する相手に対する感情としてもそうなのだろうと思います。

よく笑うひとだとおもう道のうえ玉出がばかみたいにひかってる

スーパー玉出をご存じない方はぜひ画像検索をしていただきたいですが、ほんとうに、僕の言葉で言えば過剰に、歌の言葉で言えばばかみたいに光っています。このチープな輝きが照らしてくれる、相手の笑顔。相手と共にする場所と時間のある自身の生活全体を、「玉出」に引き出させる感じ、エモいと思います(もう死語ですか?)。

ただの道 ただのあなたが振り返る 月明かりいまかたむいていく

こちらはさらに特別感を減らした歌です。「ただのあなた」というとちょっと上から目線に誤解されそうですが、歌意としては、特別なあなたのときもある中で、普通の状態のあなたという意味レベルでしかないでしょう。そんななんでもないときだけれども、月明かりの動きを感じられるくらいには、長い時間静止しているような印象です(もしくは体感だけそういう感じになっているのかも)。

『ビギナーズラック』の歌は、このように相聞歌の要素があるものだとしても、特別感を減らしにいこうという傾向を感じます。特別感というか、高級感に近いなにかでしょうか。QOLの高さを喜びにいくのではなく、普通志向のなかでエモーショナルな生活の切り取りをやっている感じ。ぶっちゃけて言えば、高いQOLを誇ってくる歌そのものが今の若い世代の歌としては少ないと思いますので、阿波野さんが特別こうだ、と言いたいわけではないのですが、この普通志向めいたものは、歌集にちりばめられているようには感じます。

きみとならもっとおいしいサイゼリヤのパスタを食べるずっと先まで

サイゼリヤのパスタというアイテムの価格帯で「ずっと先まで」やりたいというこの願いは、すごく簡単なようですが、『ビギナーズラック』を読んでいくと、そういうわけではないのかもしれない、と感じます。例えばいつかは老いて、そもそもこれを食べられなくなるとか。生活環境が激変して、行く暇がなくなるとか。逆に食べる金銭的余裕すらなくなるとか。そんな不安がダイレクトに書かれているわけではないのですが、「普通をやる難しさ」をわかった上で「普通をやりたい」というような心情があるように感じましたし、僕自身にあるそのような思いは、間違いなく強くなりました。

たばことか神社の話をしてあるく ふつうでいたいなこのままずっと

現代短歌の文脈で「ふつう」を話題にするとなると、宇都宮敦の「牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ」の「ふつう」なのかなという気はしていますが、こっちの阿波野さんの「ふつう」も取り上げていきたいなあと思います。この歌の普通志向も上述のパスタの歌と通底しているとは思いますが、では歌のいう「ふつうじゃない状態」ってなんなのだろうということを考えてみたいです。

それこそ、金銭的な激変とか、老い、不幸といったラディカルなものは簡単に出てきますし、それ自体はほとんどの人にとって共通だと思いますが、ここで指されているものは、「どうでもいい会話をする精神的余裕がなくなる」とか、歌集でやっている主体のムードができなくなる状況はすべて入ってくるんじゃないのかなという気がするのです。たとえ主体にとって社会的成功の方向だったとしても、この「ふつうでいたいな」からはズレてしまう要因ってあるんじゃなかろうか、という感じです。

いくつになっても円周率を覚えてる いくつになっても きみがいなくても

この歌の「きみがいなくても」は、すごくアンコントローラブルなものです。円周率の記憶自体は、自分だけの問題なので、やろうと思えばできるのです。ただ、「きみがいなくなる」ことは、その要因にもよりますが、自分ではどうしようもなくそうなってしまうことだってあり得るのです。そういう中での「普通志向」は、むしろ祈りのようなものとして、歌集の中で紡がれているように思います。

フードコートはほぼ家族連れ、この中の誰かが罪人でもかまわない

解説の斉藤斎藤が、「いま見えない罪をわたしは問わない、という意味」と受け取っていて、僕も同感なのですが、その「問わない」態度の根底にあるものは、普通に生きる難しさなんじゃなかろうかという気もしています。

作者あとがきでは、いつか忘れてしまう記憶を保存する意味で短歌を書く、という趣旨の文章がありました。

ともだちに借りてギターを弾いたこと おもいだせないすてきなギター

が、短歌になるのも、具体的にあったギターの思い出が薄れてきた中で、そのギターが「すてき」だったことを覚えているうちにそれを保存したかったからと言えそうです。そういう営みは、短歌を書く動機として重要だと思いますし、『ビギナーズラック』のスタンスをより明確にしているものだなと感じました。


ここまで書いてきた、生活を歌にすること、そのムードのとりかた、肯定の仕方、志向するもの、これらすべてを『ビギナーズラック』は非常に高いレベルでやっているなあと思いますが、その上で、これらをやっている短歌自体は、他にもたくさんあるとは感じます(阿波野さんが後発だと言いたい気持ちは微塵もありませんが、阿波野さん自身が草分けだというわけではないだろうと思ってはいます)。

ただ、このごった返している短歌ジャンルの中で、阿波野さんはとりわけ「短歌」をやっているな、ということはひしひしと感じます。

つまりは、歌をやっているということです。

要するに、韻律をやっているということです。

恋はすべてを追い抜きながらやってきて心臓にはまりこむド直球

僕が暗唱できる歌の中で一番と言っていいほど韻律が気持ちいい歌です。今まで引用してきた歌の中にもありましたが、阿波野さんの歌は初句七音の頻度が非常に高いです。それは意味上のものというよりも、歌にドライブ感をもたらすために助走を長くとる阿波野さんのクセなんじゃないかとは思います。そして、この歌の下句のように、句跨りを絶妙な位置で決めることで、全体としてバシッとしたリズムが完成します。特にこの歌、結句に差し掛かる「はまり-こむ」のところで、キャッチャーミットにボールがおさまるような快音の幻聴がしませんか?

短歌が単純な57577ではないことは明らかですが、うたいぶりとしても気持ちよくなれ、短歌で書かれる意味と相乗効果をもたらすこと、が、できれば最高だと常々思っているのですが、それをやれているなという歌が多いと感じます。中には、これを短歌に持ち込んだらどうなる? という実験心で短歌にしたのかなと感じるような歌もあります。

激おこぷんぷん丸、って指は打ちながらトタン屋根の汚れているところ

「激おこぷんぷん丸」が目を惹く歌ですが、下句との対比も効いていていい歌です。雑に言えば「真顔で『泣いた』ってツイートする」的なあるあるに近しい歌意の中で、下句に欠けて冷静な目線が浮き彫りになる中で、それでも言葉上の「激おこぷんぷん」が活きる初句の韻律なのではないかと感じます。

あなたのためのぼくでいたいよ夕暮れのsingin' in the rain とめどない

冷静に歌詞カードを読めば変なんですが、それでも宇多田ヒカルに歌唱されれば心を打つ詩のコードを、ちゃんと短歌でやる、短歌の韻律でやる、ということは、実は非常に難しいことだと思います。

交差点をめっちゃ斜めに走ってく舞妓はん せつなさ まいこはん

言葉そのものをオノマトペに使う歌は、誰もが書いたことがあるくらいにはありふれていると思いますが、そういうのとも一線を画した、そもそも言葉としての「舞妓はん」がすでに音でしかない、そういうところから感情にダイレクトに結びつく音としての「まいこはん」を、舞妓の疾走と合わせて韻律で伝えきれているように感じます。

あげていけばキリがないのでこの辺にしますが、やっぱり短歌は歌なので、どういうリズムでやるか? に対して真摯であることがとても大事だと思いますし、そういう楽しさに満ち溢れた一冊でもあると言うことは、しっかり書いておきたかったです。なので最後に書きました。


一通り書けたので、引用していない歌から特に好きだったものを三首引いて結びにしようと思います。

夜の居酒屋はじけるような暗算を見せつけられてうれしくなった

入り口はこちらと示す貼り紙のラミネートがほんのりずれている

きみの書くきみの名前は書き順がすこしちがっている秋の花



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