歌集を読む/永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

2021/12/29

歌集

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 このブログに掲載する文章の文体としてはイレギュラーな形になるけれど、この文章はこのブログに掲載するために書かれたものだ。日頃「歌集を読む」と題づけるときは、読者を想定していないとはいえ、歌集を紹介しようという方向性の文章を書いているのだけれど、たまにはそうではない、歌集を通じて自分が考えていることをまとめてみようとも思う。だから、次回以降の「歌集を読む」は、むしろ今まで通りの文体に戻っているはずだ。前置きおわり。


僕の手元に、永井祐『日本の中でたのしく暮らす』という歌集がある。2012年にオンデマンド出版「Bookpark」から出版され、2020年に短歌研究社から再版された。

そして、山田航編『桜前線開架宣言』瀬戸夏子編『はつなつみずうみ分光器』(ともに左右社)という歌集・歌人紹介本もある。僕のような、現代短歌の歴史をろくに分かっていない人も手を出しやすい、現代短歌の「いま」を知る助けになる本だ。

この二冊において、永井氏は、そして『日本の中でたのしく暮らす』は、いわゆるゼロ年代のエポックメーカーだったと捉えられている。瀬戸氏によれば、「その時代の短歌シーンの中心にいたのは永井祐だった」そうだ。そして山田氏によれば、「いちばん何かとディスられていた歌人」だそうだ。

さて、僕のような、2010年代後半から短歌をはじめ、俵万智や穂村弘以前の短歌はろくに知らず、それを調べたり勉強したりすることもなく、ありていに言えば『桜前線開架宣言』を読んだだけで1970年代以降が分かった気になってしまうような人間からすると、これがよくわからない。『日本の中でたのしく暮らす』はディスる余地のないすごい歌集だと思ったし、永井氏はこの領域のパイオニアなのかもしれないが、本当に氏以前にこういう短歌がなかったのかなと思うくらいには当然に受け入れてしまった。それまでの歌壇ってどんな価値観だったんだ?という気持ちがある。それはそうとして、今の口語短歌シーンに永井氏が与えた影響というのは、大きいのだろう。僕自身、影響を受けていると思う。

とはいえ、永井祐みたいな短歌をやっている人だらけか、というと、そういう気もしないのである。多くの人が影響を受けているということはわかる。でもそれは「影響を受けた人」であって、「それをやっている人」とはちょっと違うような気がしている。じゃあお前の言う「永井祐をやっている」って何なんだよ、となるわけだけれど、自分でもずっと言葉にできないでいた。そのあたりを、ここでまとめていけたらと思っている。文中、引用符でくくった短歌はすべて永井祐『日本の中でたのしく暮らす』からのものだ。


まずは永井氏が登場したことによる「歌壇からのディスり」を拾いつつ、氏の短歌の特性を見ていこうと思う。といっても「ディスり」を知らない以上、引用するしかないわけだけれど。

『桜前線開架宣言』には、「だらだらした韻律と特にやる気をみせる素振りのない登場人物象」が批判されたとある。『はつなつみずうみ分光器』は、「こんなのはしみったれている」「自分たちが若かったころとはあまりにもちがう」と、上の世代の感じ方を推測している。なるほど、そういう側面はあるように思う。

はじめて1コ笑いを取った、アルバイトはじめてちょうど一月目の日

なんだろう、学生バイトなら別だが、「アルバイトはじめてちょうど一月目」というのは、社会人的に生活基盤としては頼りない感じを受ける。主体はそこで一か月間、笑いを取ることがなかった。はじめて取った瞬間というのは特別だろうけれど、どこか同情的でもある。そこを短歌にするというのは、いわば「しょぼい私」の告白でもある。

わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる

「おしゃれ」からの対置、「都会」からの対置がある。それでいい、という感慨も見える。「写メールで」というのが、撮ったものをコミュニケートしている感じがあって、自分もそうだし、周囲もこんな感じなんだよねというふうに読むこともできると思う。こういう態度に世代を超えた反感があるのは分かる。でもしょうがないのだ。僕がはじめて入社した職場の上司は、「男なら車と時計でステータスを女に見せるんだ」といっていた。僕は車も持たず、「ふんぱつして買った」5万円のセイコーの腕時計で仕事をしていて、それでいいと思っているが、上司的にはつまらないやつだっただろう。自分に置き換えて書くと悲しくなったが、よくわかってきた。

この、高望みしないような生き方でいいというようなうたいぶりは『日本の中でたのしく暮らす』には間違いなくあると思う。例えば歌集中でもっとも長い連作は「ぼくの人生はおもしろい」というものだが、これは非常にわかりやすく、季節の移ろいとともに主体の暮らしぶりを追跡することができるものだ。

ゴミ袋から肉がはみ出ているけれどぼくの望みは駅に着くこと

テレビの台にティッシュを2枚しいた上にお餅をのせてみかんをのせる

「望み」のしょぼさだったり、安上がりなこだわりだったり、生活がチープであることは見てあきらかだ。連作中、友人などとコミュニケーションをとったりとらなかったりするが、主体がそこで劇的な行動に出るわけでもない。これを「おもしろい」と題ではっきり言う。さらに歌集も「たのしく暮らす」と言う。正直、僕はこういう「おもしろい」も「たのしい」も、ノれる。ただそれは、僕が平成生まれのまだ若い世代であることと無関係ではないだろう。

あんまり世代でラベリングするつもりはないけれど、確かにこういう価値観は昔より今、という感じがあるので、そういう意味でのバッシングというのは分かる気がする。こんな生活を歌にするなら、苦しみと共に絞り出せ、みたいな。ちょうど『日本の中でたのしく暮らす』が出版されたころ、古市憲寿の『絶望の国の幸福な若者たち』という本が話題になっていた。現在の(といっても十年前になるのか……)若者は七割くらいが自分の生活に満足している、みたいな内容だったが、どこまでこれが一般論として通用するかはともかく、当時の二十歳そこそこの僕には「まあそうかもね」と思えるものだったし、考え方としては『日本の中でたのしく暮らす』とも親和性があるようには思う。

そして、この、「今の僕のこのなんでもない生活」をゆるっと口語で短歌にしていく、という要素は、今の短歌シーンのなかで一大ジャンルになり果ててしまっていると思う。自分の作品も、そのジャンルに組み込まれきっている部分があるとも思う。たとえば宇都宮敦氏など、そういう方向で後進に影響を与えている歌人はほかにもいると感じるので、すべてが永井氏の功績だとは思わないのだけれど、『日本の中でたのしく暮らす』は、たしかにここをラディカルに提示した歌集なのだ。

だからこそ、それだけで片づけたくないものがある。今、死ぬほど繰り返されている「なんでもない生活詠」とは一線を画すなにかが、永井氏の歌にはあるように思うのだ。


ところで『はつなつみずうみ分光器』にて、瀬戸氏は永井氏の持ち味を「適切な距離感」と述べている。「他人を勝手に歌のための都合のいいアイテムにしないこと。「ぼくのいる位置」から「肯定」すること」ともある。

ベルトに顔をつけたままエスカレーターをのぼってゆく女の子 またね

この「適切な距離感」というのはまさにそうだと思う。永井氏の歌は、他者に踏み込まない。短歌で他人を出すときに、その他人をその歌の「読みどころ」に奉仕させるということはよくある。そういう歌は面白いが、その面白さというのは歌の作者ではなくて他人自身にあるんでしょうが、と、作者が手柄を横取りしているような気がして白けてしまうこともある。だいたいそういう歌は、他人の面白エピソードを歌の中で自分の言葉にしている。ところがこの歌は、そういう感じでエスカレーターをのぼってゆく女の子というのは面白いものの、淡々と提示するだけにとどめ、「またね」の一言で、主体の立ち位置と合わせて女の子を相対的に配置しなおしている。白けようがない。

瀬戸氏の指摘する「適切な距離感」は、永井短歌を読み解くうえで非常に重要な要素だろう。一方で、はたしてこれが「肯定」なのだろうかという気持ちが僕にはある。エスカレーターの歌は、「またね」の結びが肯定的ではあるし、上述の「ぼくの人生はおもしろい」観からしても、確かに「こういう生活だけれど肯定する」という側面があることはあるのだろう。ただ、それが基本スタンスだとは感じない。

窓の外のもみじ無視してAVをみながら思う死の後のこと

昼過ぎの居間に一人で座ってて持つと意外に軽かったみかん

どちらも今まで引いてきた歌にも通じる、ローテンションな生活の歌だ。しかし僕には、どちらも生活の「肯定」は感じない。一首目、AV鑑賞とは(それが大事な趣味の方には申し訳ないが)虚しさがついてくる行為だと思う。なんというか、「死の後のこと」を思うにはぴったりなところもある。ただそれは、鑑賞後の話であって、鑑賞中にここまでフラットに意識を回されると、生そのものに対して虚無的な感情を覚えているように取れる。二首目、「昼過ぎの居間」というのは、少なくとも今そこで労務を提供していないことはわかる。ひょっとするとその「昼過ぎ」は、平日なのかもしれない。安定しない生活が背景にあるのかもしれない。そういう状況で「意外に軽かった」みかんというのは、どこかはかなさを思うものでもある。

もちろん、地元で写メールを撮ることや、ティッシュの上にお餅とみかんを乗せることは、生活を肯定的に捉えたものだと思うし、永井氏の歌にそういう要素があることは認めるが、全体的、あるいは基本的な特性として「肯定」を置くのは危険な気がしている。瀬戸氏の言葉を何度も借りるが、「適切な距離感」まで、そこから先の肯定/否定の価値判断は措く形で読み進めていこうと思う。

もうひとつ、『桜前線開架宣言』にて山田氏は「現代社会のリアルが何よりも詰まっている」という言及をしているが、ここも丁寧に捉えてみたい。永井氏の歌にリアリティがあるのは間違いないだろう。それが、現代社会の反映であるということも多分にあると思う。しかし、個人的には、「リアリティ」から外れている要素がひとつ、あるようにも思う。主体の主観である。

あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな

初期の話題作とのことだが、この「主観」にリアリティはあるだろうか。この歌は、電車にはねられるという事象に付随する一切の感情を抑えて抒情することで、こんなバカみたいな、しかし本質的な言説が導かれ、感情を抜きにした現象が立ちのぼっている。「青い電車」という、最低限「そこにある電車」という指示にとどめた電車の抽象化もあって、よけいそれが強くなる。それと、語りのゆるさのミスマッチが何とも言えない味わいになっているのだけれど、ともあれ普通こんな考え方は出てこないわけだ。本質的にはこの通りに考えているんだけれど、普通はそこに「怖い」とか「痛そう」とか「嫌だ」とかの感情がついてくる。

1千万円あったらみんな友達にくばるその僕のぼろぼろのカーディガン

お金がある妄想をしてもしなくても「ぼろぼろのカーディガン」に行きつくことで主体の「その水準の生活」が強固になっているけれど、「みんな友達にくばる」という主観はそんなに一般的ではないと思う。そんなにお金に執着ないんかい、とつっこみたくなる人だっているはずだ。

永井氏の歌には永井氏の主体がいるし、わりとものごとを考えたり、価値観が出ていたりする。それが、ちょっと変わっているというところは留意しておきたい。たしかにリアルが詰まった歌たちではあるのだけれど、そういったリアルに立脚する主体の考え方は、他の人にとっての当たり前かどうかはわからないのである。


ここまで引用を起点に考えを整理してきたが、そろそろ個人的に思っていることにも触れておこう。永井氏の歌は、空間や街、世界レベルでの把握がちらほらでてくる。

テレビみながらメールするメールするぼくをつつんでいる品川区

レトリカルだが、自室でテレビを見ながらメールをするというミニマムな行為の中で、「品川区」そのものを把握している。この拡張的な感覚は、どことなく、品川区全体で同様のミニマムな生活をしている他者が射程にかかってくる気がする。

ゆるいゆるい家路の坂の頂上でふと地球上すべてが見える

そんなことはできっこないのだが、「頂上」に立った時に「丸い地球全体を把握した気分になる」というのは、あながち分からなくもない。

整然と建物のある広いところ 僕全体がそっちを選ぶ

この歌は、直前の二首ありきのレトリックでもあるのだけれど、自分が街を移動するにあたって、勝手にこういうふうに動いてしまう、そんなことがある、というような把握を感じる。

これらの歌から思うことは、永井氏が人間の生活をかなり俯瞰的に把握しているのではないかということだ。自分自身を一つの点と考えたとき、町は一つの空間になる。それを、点である自分が線形に移動する。そして主体が移動する中で見つけるもの、出会う他者というものも、また点としてそれぞれの意思に従って動いてきて、主体と接近しているのだ。空間の中の無数の点の動き的に世界を把握したとき、そこにはすごくダイナミックなものがあるし、そのダイナミックさのほぼすべてを自分自身ではコントロールできないことに気づく。

2月5日の夜のコンビニ 暴力を含めてバランスを取る世界

珍しく、世界のシステムめいたものに言及している歌だ。主体がこれを思った起点は、どこまでいっても上句に提示される個別の事象なのだろう。そこから世界はバランスが取れていると感じるには、上述の、自分自身ではコントロールできない他者たちのそれぞれの動き、という把握が必要なのではないだろうか。

これを踏まえて、少し前に言及した「適切な距離感」についてもう一度考えてみようと思う。

ローソンの前に女の子がすわる 女の子が手に持っているもの

一般的な観点からは、コンビニの前に座るというのはちょっと変だ。不良なのか、疲れてしまったのか、とにかく理由なしにとる行為ではないだろう。そこには「女の子」の意思がある。そんな状態で「女の子が手に持っているもの」にも、あえて持っている意思がある。ここを推測したり、決めつけたりすると、途端に「女の子」は歌のアイテムに成り下がる。そうしないのが、永井流の「適切な距離感」だ。

ただ僕は、この「距離感」を、「あえて取っている」というよりは「取るしかない」ものなんじゃないか、という気がしてきた。なぜって、ここに提示されない「女の子」の意思は、分からないからだ。他者がどう考えているかなんて、分からない。

ここで重要なのは、まったく分からないわけでもない、ということだ。推測はつく、こともある。けれど本質的には分からない、のである。

やせた中年女性が電車で読んでいるA5判の漫画のカバーなし

この歌には、様々な価値観を持って臨むことができる。電車で漫画を読むときは、普通カバーをかけるかどうか。かけないとして、A5判はけっこう大きいサイズだが、ほんとうにかけないか。そもそもその大きさの漫画を電車で読むのはどうなのか。あるいは、中年女性の振る舞いとして、それはどう感じられるのか。

この歌が、ただ事実のみを述べているのは、主体からすれば中年女性の価値観なんて分かりっこないからだ。それでいて、この情景が歌になるのは、この情景になんらかの価値判断を人は下せるからに他ならない。この絶妙な踏み込み方が、永井氏の短歌の特質なんじゃないだろうか。

他人の心は分からない。そんな他人たちの行動で世界がつくられていく。しかも、分からないだらけなのに世界はうまく回っている。自分はその個々のアウトプットを見るまでしかできない。というのは、結構大胆な線引きであるとは思うのだけれど、永井氏の短歌はそこまでやってしまっている、と思う。その延長にある、自身の生活の見せ方とか、他者に踏み込まない距離感とか、そういったものは後の歌人にどんどんパクられていくけれど、ラディカルさという点では永井氏が常に最先端を行っている気がするのだ。

僕が永井氏の歌の主観に覚える「変さ」も、「人の心はわからない」のベースを補強する要素に感じられる。歌のさまざまなポイントに共感し、心動かされながらも、すごく他人な感じがするのである。


言語化したかった部分ができてきたのでまとめにかかろうと思うが、関係性の歌について言及するのを失念していた。これを抜かしてここまで書いてきたものだから、歌集を読んでいない人からしたら、すごくディスコミュニケーション的な歌集に思えるかもしれない。しかしそういうことはなく、むしろローテンションな生活の中で、他者とのコミュニケーションは結構見られる。

缶コーヒーのポイントシールを携帯に貼りながら君がしゃべり続ける

今日は寒かったまったく秋でした メールしようとおもってやめる する

この文面で前にもメールしたことがあるけどいいや 君まで届け

携帯電話とメールの歌ばかりじゃないかと自分でも思ったが、その比率が高いのは事実だ。特にメールの歌は多い。この遠隔的なコミュニケーションの多さが、生活空間の把握だとか、他者との距離感とか、そういったものをより思わせるのかもしれない。

それでも主体はコミュニケーションを求める。人の心は分からないけれど、それでもコミュニケーションはできるからだ。

月を見つけて月いいよねと君が言う  ぼくはこっちだからじゃあまたね

「あえての二字空け」もあり、様々な読み方をされている歌だと思う。直後の歌が「ふつうよりおいしかったしおしゃべりも上手くいったしコンクリを撮る」であることを踏まえると、多少あっけなくも思える「じゃあまたね」も、主体の精一杯のコミュニケーションであって、自分としてはよかったんだろうという推測はできる。そんなときの「長めの間」が短歌的に効いているなと思うし、いい歌なんだけれど、この距離感こそが永井氏の人間観なのかもな、と感じる。

元気でねと本気で言ったらその言葉が届いた感じに笑ってくれた

ここでいう「届いた感じ」こそが、主体のできる、他者への踏み込みの限界なんじゃないかなあと思うし、僕としては真理をついているものだと思っている。

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