歌集を読む/初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』

2022/03/28

歌集

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初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』(書肆侃侃房)を前に読んでいましたので、その感想を書きます。

書籍情報はこちら。2018年4月の発行ですね。


僕が自分の歌作に影響を受けた歌人を挙げろと言われたら、迷うとは思うのですが、そのとき思い浮かべる何人かの歌人のひとりに初谷さんがいます。僕の実作をご存じの方がこれを読まれていたら意外に思われるかもしれませんが、そうなのです。

というのも、短歌をちゃんとやろうと色々な現代短歌の作品にあたる中で、「こういう調べも短歌としてあるのか」と目から鱗が落ちたのが、初谷さんの作品だったからです。そういうわけで、この歌集も、楽しむためというのはもちろん、勉強のためにちゃんと読んだ、ことを、四年近く経った現在思い出しています。自分語りはこれくらいにして、感想に移ります。


歌集の感想文で、僕は割と韻律感を取り上げることがありますが、なんとなく補足的な取り上げ方をしていました。しかし『花は泡』(すいません、省略させていただきます)については、まずここから入りたいと思います。初谷さんの歌を読むうえで、韻律・調べは最初に言及しておくべきだと思うからです。

初谷さんの歌は、もちろん短歌なので、普通の57577もたくさんありますが、それにとらわれない、自由でゆるっとした印象を受けます。それは少女的な語り口から紡がれる口語文体がそうさせているのかもしれません。とにかく、短歌を分かったうえでのびのびと言葉を使いこなしているなと思います。以下、引用はすべて『花は泡、そこにいたって会いたいよ』からです。

全自動わんこごめんね全自動わんこ2のほうがちょっとかわいい

「全自動わんこ」という架空の存在の連作から。比較的定型の歌ですが、四句目の音が「わんこつーのほうが」だと読むと(「わんこに」と読んだとしても)、字余りのふくらみがあります。これくらいの字余りならだいたいの歌人はやりますが、こういう口語とあわせることでことさらに不自然でなく、短歌定型の中で自由にやれている印象を受けます。

人魚 あたしだったの 恋人はあたしをおいしいよって言ったの

歌集の解説で山田航氏も、初谷さんの優れた韻律感覚に言及されていますが、この歌が引き合いに出されています。下句に句跨りがあるのと、初句の字足らずが印象的です。山田氏はこの歌を念頭に、休符の使い方について言及されていますが、まさにその通りだと思います。個人的には、「人魚」のあとに二拍ぶんの休符が含まれているかどうかは懐疑的で、「人魚 あたしだったの 」の、二つの休符を含めて初句二句の長さをやっているようには感じますが、休符のテクニックに裏打ちされたものであることに疑いはありません。

あげた花の花言葉いいかんじでよかった あなたの銀歯はかっこういいよ

この歌の上句が「あげたはなの/はなことばいい/かんじでよかった」なのか「あげたはなの/はなことばいいかん/じでよかった」なのかは人によるかと思いますが、どうとっても字余りと句跨りのハイブリッドゆえ、破調だと言えるでしょう。それでもこの歌が短歌として強固だと思えるのは、下句のかっちりした七七が大きいと感じます。自由にやるところ、定型をきっちりやるところのメリハリのつけ方が優れているなあと思う次第です。

これをなぜ最初に言及したかというと、短歌の調べを軽視することなく、伸び縮みするような韻律が、歌に提示される主体の感情や姿勢にリンクしているところがあるのではないかと思っているからです。これはおいおい書いていくとして、次に、初谷さんの文体……言葉のあっせんについても見ていこうと思います。

ここまで引いてきた歌からも、初谷さんの歌の語り口が少女的というか、やや幼げなものを覚えることは伝わるかなあと思います。その上で、選ばれる言葉の傾向としても、この方向性の延長として強い印象を残すものが散見されます。

なんせ、第Ⅰ章のタイトルから「春の愛してるスペシャル」です。その後も、「おはよ、ジュンク堂でキス、キスだよ」などと続いていきます。その上で、歌にもこういった言葉選びが落とし込まれるものも多いです。

ばかにされてとても嬉しい。どすこいとしこを踏んだら桜咲くなり

連作「おはよ、ジュンク堂でキス、キスだよ」から引きました。この連作は、ジュンク堂という場所に居続ける主体がそこで考える、相手への希求と、書店という属性がもたらす言葉についての心寄せが並んでいるもので、個人的に一番好きかもしれない連作です。そういう中での「どすこい」の感じ、さらには本来は文語のはずの「咲くなり」もおどけた印象を受ける感じ、まさに初谷さんの個性かなと思います。特に『花は泡』には相聞歌というか、相手に想いを寄せる歌が多いのですが、それをこういった言葉に乗せていくスタイルは、短歌シーンにおいて結構な数のフォロワーを産んでいると思います。

ジュンク堂追いだされてもまあ地球重力あるし路ちゅーもできる!

連作最後の歌ですが、「路ちゅーもできる!」を、「!」まで含めてそのまま短歌に落とし込んでしまうこの文体から読めてくる、無垢そうな主体の感情には、どうしても心が動いてしまうのではないでしょうか。

なお、決してこのような外連味の強い言い回しばかりで歌集が成り立っているわけではないことは申し添えておきます。言及した「春の愛してるスペシャル」についても、タイトルのインパクトは強いですが、収録歌のトーンはそれよりも抑制的です。

だしぬけに指絡めればすこしだけ力がこもる いぬ 見に行こう

好きな歌を引きましたが、この「いぬ 見に行こう」は、リアルな発話の空気感と熱量をそのまま転記したような印象ですし、デフォルメされた言葉回しと世界観は特徴的ではあるものの、言うなれば人間関係のアララギ的描写みたいなことをやってのけられるのも、初谷さんのすごいところなのかなあと思います。


韻律・文体・語り口と、歌からダイレクトに見えるところの言及をしてきましたので、歌から読み取れるものの話にシフトしていこうと思います。少し述べましたが、相聞的な感情の多い歌集です。相聞という言葉を使うのに躊躇してしまうのは、単なる恋愛というよりも、相手の存在を求めている感じが強い印象があるからではありますが、しかしこれらの歌が述べているものが「愛」であることに変わりはないと思います。

その中で一つ感じたのは、この愛は一方的だったり双方的に見えたりするんですが、「相手と一体化したい」ような感情が見える歌がけっこうあったなということです。

いいことをしようふたつの飲み物をふたりで飲んで楽しく暮らす

飲み物を分けあうというのは、二人が一体化するような感じを受けますが、あえてそれぞれが飲み物を用意してそれぞれを分け合う、というさらに強いものが提示されます。しかもそれが結論ではなく、「楽しく暮らす」ことにつながっていくわけで、この「相手との共有」の積み重ねに強い希望が見いだされる歌です。

こういったポエジーが出てくる歌には、得てして水、液体、海といったモチーフが多く出てきていて(もともとこのモチーフの多い歌集だとは思いますが)、どことなく、一体化の方向性として「溶け合う」概念を想起します。精神的に、あるいは身体感覚を通した心情的に自分を溶かし出して、相手と混ざりたいような感覚と呼べばいいのか、そういうものを感じました。これは、さきに言及した韻律の伸び縮みする感じともマッチしているため、初谷さんの短歌としてのさまざまな要素がこの演出につながっているのではないかなと思います。

ちなみに、主体自身の身体感覚の観点からは、むしろ確固たる「私の身体」を把握する歌も多いと思います。連作単位でも、女性特有の身体性を人魚に仮託している「人魚」や、女子学生が先生を想っている様子の「フラッタリンツ」など、テーマとして根幹にこれが据わっているものがあるなと感じました。この要素はけっこう読んでいてハッとするところがあって、例えば、

スカートが海風孕む生まれるよいつかぜったい誰かを産むよ

という、(僕は男性なので真に共感できているかはわかりませんが)風でスカートが膨らむ様子から「誰かを産む自分」を強く意識する主体の歌があります。この把握には確かに心が動かされるのですが、どちらかと言えば他の歌で目立っていたインパクトの強い言葉選びからは排除されがちな、生のリアルに紐づく感情であることから、こういうのもあるんだなと思うところはありました。失礼な言い方になってしまいますが、アイドルがうんこすることから目をそらさないというか、でもそれはそのはずで、僕のたとえでいうところの「アイドル」をこの歌集の主体は自分事として引き受けている気がするのです。

もういいよわたしが初音ミクでした睫毛で雪が水滴になる

この歌もすごく好きで、この主体は「睫毛で雪が水滴になる」という、とても細かい身体感覚を意識したまま、バーチャルアイドルの「初音ミク」を引き受けているんだなというところにグッときます。

この辺の感慨には、すごく悲しげで寂しげなものを覚えてしまうのですが、それはこれらの歌から「この状態は永遠ではない」という意思を感じるからかもしれません。前提として、人は永遠に生きられないというのはもちろん、「いまあるこの状態」も永遠ではないことの意識といいますか。特に、「少女的な私」という状態は、大人になってしまうだけでも失われてしまうものであることから、思春期からヤングアダルトにかけての「この期間」の限定性を突きつけられているようでもあります。

願望レベルとして、相手と一緒になりたい、今のこの輝きを留めていたい、というものを感じる歌集ですので、それがいつか終わってしまうことについては、恐怖、ひいては否定に向かっていくのかなとは感じたのですが、『花は泡』については、その点は受け入れ切っているようにも思いました。

愛されていなかったこと 居たことも 遠雷、ひかりの赤ちゃんのよう

「愛されていなかったこと」のみならず「居たこと」そのことすらも過去になっていく。下句の遠雷の描写から、そういう過去はどんどん生まれて過去になっていくような印象を受けます。これはネガティブな文脈における受け入れ方だと思いますが、

快晴がつくる逆光きみの名を一生覚えている気がするな

この歌の「一生覚えている」は、「きみ」との関係の有限性を受け入れた上での心象なんだろうと思います。歌集のあとがきを読めば、「花も泡も、簡単に消えてしまうけれど、それでいいのだと、思っています」と結ばれているように、希求はしつつも受け入れるスタンスが感じ取れます。主体の相手への想いの寄せ方は、全肯定的なものが多いですが、それはいつかくる終わりを見すえた上での祈りの裏返しなのかもしれません。そのことを意識すればするほど、心揺さぶられる歌集なんじゃないかと感じています。


さて、ここまで述べたような「いつか終わりが来る」という考えは、おそらく死を想うことにつながっていくと思います。そして『花は泡』においても、特に後半にかけて、死を想う歌が増えていくように感じます。ただそこの想いかたは、よくある「私自身が死ぬこと」について生活の延長から実感する、というような詠いぶりというよりは、時間軸における「ある点」としての死の把握、という要素が強いようには思いました。

死後を見るようでうれしいおやすみとツイートしてからまだ起きている

日常の「あるある」として、寝るツイート後も起きているというのは共感性が高いものだと思いますが、これを「死後」と把握することは、時間軸における「おやすみ」という「死」が、「点」としてあるということに他なりません。だからこそ、「起きている今」は、「死」という「点」を超えた後なのです。そういうところに触れた感じだから「うれしい」のです。

回遊魚の展示のことを話す 死んだってきづかず回ってるならいいじゃん

これはさらに踏み込んだ歌で、「回遊魚の展示」は、回遊魚にとっての死という「点」の先なのだと把握したうえで、死んでもなお存在しているというねじれたところに発想を着地させているものだと思います。この発想っておそらく普通の人はできなくて、「死んだら終わり」と「死はただの点」を同レベルくらいの命題として捉えることは困難だと思います。

思うに、『花は泡』がやろうとしていることの一つは、そこなんじゃないかなという気がします。「死はただの点」であることを短歌でやること。こういうと大げさですが、どんな瞬間もいつかは滅びる、消える、要するに死ぬので、そのことも思ってしまうけれど「その瞬間は存在している今」を保存することと言い換えればどうでしょう。

あ、しぬ。と気軽に言っちゃうきみが好き。すこしみらいで許されていて

「しぬ」って言ってもそうそう死なないのですが言っちゃうことはあって、そのあるあるを愛おしみながらも、「すこしみらい」という書き方が、この「きみ」の「かなり未来」にはありえる「死」を匂わせます。とはいえこの「きみ」には現在もありますし、「すこしみらい」もかなりの確度である、ことが短歌で保存されています。

エスカレーター、えすかと略しどこまでも えすか、あなたの夜をおもうよ

ただのエスカレーターに想いを馳せる歌ですが、歌集中に類似の発想の歌がいくつかみられます。つまり、言霊を取り上げたり作り上げたりしてそこに心を寄せる歌ということですが、この感情もこの文脈に関係するのかなとは思いました。短歌が言葉である以上、これが「残る」という信頼があると思うのですが、この、言葉は残るからこそ言葉として短歌にする、という営為もまた、祈りのように思えてきます。

とこしえだ 言葉はぼくを響かせて骨をひとかけ花へと変える

歌集の終わり際に出てきたこの歌が、なんだか僕には、歌集の大部分を背負っている歌であるかのように感じられました。

イルカがとぶイルカがおちる何も言ってないのにきみが「ん?」と振り向く

初谷さんの代表歌ともいえるこの歌は、『花と泡』を開くと最初に目に飛び込んできます。この歌は、イルカショー的な空間に散々飛び交っているであろう音を、「きみ」が勘違いして主体の声として聴いてしまった瞬間を切り取っています。このみずみずしさにはずっと胸を打たれ続けるんだろうなあと感じつつ、この歌は、いつか滅びる何かだけではなくて、本当は存在しなかったのに存在してしまった声を保存しているんだなということに、改めて思い至れました。これはこれで、すごく超克的なことなんじゃないかなと感じています。


書きたいことが書けたので、引用していない歌から好きだったものを三首引いて結びとしたいと思います。

たりねーと言えば抱きしめにやってくるなにがたりないのかも聞かずに

あっ両手はなたれてゆくまっすぐにまぶしいきみの手放し運転

あたらしいニットが身体に合っている ようこそぼくの身体へニット




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