千原こはぎ『ちるとしふと』(書肆侃侃房)を読み、感想を書いていましたので、公開します。
書籍情報はこちら(書肆侃侃房HP)。2018年4月の発行ですね。
この文章は、ここ「ニラみじん切り学部」に掲載する用に書かれた文章ではあるのですが、それと同時に歌人仲間とやっている書評の意見交換会に提出したものをベースとしています。「つるつるのおもちゃ」と題して提出しましたが、そこでもらった意見をベースに、それなりに加筆してあります。意見交換会で3,000字の制限があったのを、こちらでは自由にした感じです。なお、断りのない限り、引用歌は千原こはぎ『ちるとしふと』によるものです。
スカートを汚すシーソーいつだってわたしばかりが好きなんだった
そんなにも開け放つから飛び込んでしまうじゃないか鍵のないひと
書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズ第四期配本の千原こはぎ『ちるとしふと』は、著者の一万首に迫る短歌群をベースに新作を交えて編まれた歌集です。冒頭の引用歌のように、恋愛・相聞感情を扱った歌が多いのが特徴です。
僕はかねてから、千原さんの歌は主体が交換可能な側面が強い、という印象を抱いていました。言い換えれば、読者が「この歌の主体は私だ」と思える要素がある、ということです。たとえばJ-popの歌詞の文脈であれば、普通のことだと思います。しかし、短歌は多かれ少なかれ一人称の文学という要素を孕んでおり、交換可能な主体という考え方は変わっているでしょう。本稿では、歌集を通じてそのことについて考えていきます。
さっそく矛盾するようなことを書くと、『ちるとしふと』の主体像は比較的確立されています。冒頭の引用歌からも感じ取れる、恋愛感情は多く持つものの、控えめで前に出ることが苦手で、うまくいかない関係やコミュニケーションに一人悩みながら、それでも恋を育んでいく人物です。また、女性、イラストレーター・デザイナー、という属性を読み取ることもできます。
行ったことのない街の知らない店の地図を描く行くこともないのに
「掲載誌お送りします」許可もなく表情は描き換えられていて
歌集はⅠとⅡの二部構成で、こういった職業詠はⅠにまとめられていることから、Ⅰの歌群がより千原さんらしい主体ということかもしれません。とはいえどちらの部も主体の印象が大きく変わることはなく、かつ、職業詠すらもどこか交換可能性を覚えます。
仕事で熱心に書く地図の店の「自分の行かなさ」や、イラストレーターの地位を切り取るのは、リアルな職業詠で、そうではない僕はハッとさせられますが、現実のイラストレーターであればこの主体に交換されうるレベルに留まってもいるな、とも感じるのです。
それでも『ちるとしふと』を通じて立ち上がる主体像は確固たるもので、では僕がこの主体に交換されるかと言われると、そういうことはないわけです。それは、僕が男性で、イラストレーターではなく、恋愛感情を取り扱ったものにそこまで関心がない、という、僕自身の属性によります。それでも、一般的な歌集に比べると、『ちるとしふと』の主体が一般的な歌集並に確立されているにもかかわらず、かなりの数の読者が交換されうるのではないかという気持ちです。
すきすぎてきらいになるとかありますかそれはやっぱりすきなのですか
そして交換可能な短歌の最たる例が、このような「気持ちオンリー」の歌でしょう。否定的に感じてはいません。事実、好きと嫌いとが表裏一体という直感をくるくると表現した、千原さんの代表歌の一つとも考えられる抒情あふれるいい歌です。その上で、具体的な実景を見せるわけではない。『ちるとしふと』の中にこのタイプの歌は多く、その多くは共感した読者に「これは私のことだ」と思わせることができるのです。
ほんとうにわたしでいいの下顎骨のラインを異常に愛するような
この歌のレベルで「主体固有の感じかたっぽいな」と思うくらいには、主体の感受性の傾向はブレない歌集であるにもかかわらず、表現が一般化されていると感じます。そしてこの一般化は「気持ちオンリー」の歌ではない、具象を詠み込んだ歌にも見られます。
ちゃんとしたランチは初めてだと気づくスープカレーを冷ますくちびる
すこしだけもたれてしまいたい午後のダッフルコートはやさしい匂い
どちらも「スープカレー」「ダッフルコート」といった具象が歌に据えられています。これらが短歌的に「動く」とは思いません。仮に虚構でも、エピソード上そうだったのだろうと思います。その上で、歌の中の「ランチ」において、スープカレーはスープカレーでしかなく、相手が着るダッフルコートもただのダッフルコートでしかなく、主体が具象を引き受けないのです。
大みそかの渋谷のデニーズの席でずっとさわっている1万円 /永井祐『日本の中でたのしく暮らす』
この歌と比較することが適切かどうかはさておいて、パッと頭に浮かんだ具象を詠み込んだ歌です。この「1万円」は、ものすごく「この主体にとっての1万円」な感じがします。それよりもより概念的に具象を取り扱っている気が、『ちるとしふと』からはします。
この二首がよくない歌だと言いたいわけではありません。むしろ、(自分の意図しないところで)出てきた「スープカレー」を「冷ます」行為における「上質な食時感」が「私にあるんだ」という気持ちだったり、「ダッフルコート」という安心感を覚えるものが「やさしい匂い」を放つので、「もたれたい」となる気持ちだったりと、主体の気持ちが細やかに描けていると思います。
そう、気持ちなのです。歌に登場する具象は、それが持つイメージや要素は歌の中で「効く」ものの、すべては主体の気持ちに収束し、ただ具象のままあり続ける印象があります。
あとがきによると、「ちるとしふと」とは、世界をおもちゃ的に見せるレンズのことだそうです。確かに、と思います。歌から感じる確固たる主体の気持ち、でも主体の固有の感じは出てこない平坦さ。まるでつるつるのおもちゃを撫でているような心地が、鑑賞から引き出されます。このつるつるさは、確かにすごいのです。
こうやって書くと、なんだか僕が、『ちるとしふと』は平坦で退屈だと感じているように思われる気がしてきました。そうではないんです。
溢れだすものを残らず書き留めて雨の止まないノートをつくる
むしろ、平坦な一般化の中でなぜここまで詩情を出せるんだろう、という気持ちがあります。この歌がやっていることは「気持ち」を溢れさせた上で「ノート」の上に「雨がやまない状態」を作り出しているという、イメージの二重の飛躍ですが、面白いくらいにスッとわかります。この「わからせ力」に本当に感服します。
もっとも、繰り返しになりますが、僕は『ちるとしふと』の主体と交換されやすい属性の人間でないため、この歌集を楽しめるという意味での限界があったのは事実です。この主体の表現方法は、冒頭でも少し書きましたが、J-popの歌詞観といいますか、作者自身の固有の心情表現よりは広く誰にでも共感されるような路線に近いです。短歌はむしろ、共感こそされてもどこまでいっても自分の心情表現をやる、みたいなところがメジャーである気がしていますし、作歌でそれを意識している僕からすれば、やっぱりここは奇妙でした。
ここで本稿の趣旨に立ち返ります。なぜこういう表現を? そう感じていたところ、あとがきにこんな一文がありました。
現実じゃないところの感情を掬い取りたくて(中略)短歌を流すようになり、
なるほどな、と腑に落ちました。つまり、「今感じたこと」よりも「感じるかもしれないこと」を主軸に作歌をするスタンスだと理解しました。ならば、多くの歌の軸が「気持ち」になることもうなずけます。そして歌にあらわれる景も、感情をスタートにして立ち上がるのだとすれば。
家族席で君と牛丼食べている家族になろうと言いそうになる
ひとつひとつの魚の名前を当ててゆきおいしそうって同時に言った
ここでの「牛丼」「魚」という具象の意味より「気持ち」が中核にあるのも、「ある感情を抱えた状態で起きそうなことを空想した」からのように思えてきます。そしてその「ある感情」自体は主体もとより千原さんの「現実じゃないところ」から引き出されているので、「現実じゃない」にしても、一貫するのではないでしょうか。
しかしこの見立ては、歌における「気持ち」の中核化を説明したとしても、歌の平坦な感じを説明してはいないと感じます。そこが千原さんの固有の手つきなんだろうなと思いつつ、それで終わらせるのは微妙なので、一つ推測をしました。
この作歌手法で立ち上がる主体は「自分のようでいて自分では必ずない誰か」になるわけで、それゆえ「誰でもなさ」が強くなるのではないか、と。
ときどきは列に並んで食べようかって言いあいながら土曜がすぎる /𠮷田恭大『光と私語』
例えば具象の解像度が落とされ、誰でも交換されやすそうな歌といえば、𠮷田さんが浮かびますが、どこまでいっても𠮷田さんは「誰でもなさ」を意識しているわけではなくて、一般化を通じて接続されうる読み手・書き手それぞれの具象、をやっているように感じます。𠮷田さんが「あなたも・わたしも」な主体の立て方だとすれば、千原さんは「あなたも」で止まっている、いや、あえて止めているような気がするのです。
おしまいはいつも「じゃあね」と言うきみに「またね」と返す祈りのように
この推測は千原さんにとって余計なお世話になりそうですが、こう思ってからというもの、僕は歌集のイラストがより収録歌とフィットして感じられるのです 。また、ここまで述べてきたような特徴を有する短歌は、千原さんしか書いていないわけではないとは思いますが、そういった短歌に、特にインターネットの短歌シーンにおいて、千原さんが与えている影響は無視できないものがあるのではないか、とも考えています。
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