歌集を読む/三田三郎『鬼と踊る』ほか

2021/09/12

歌集

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 三田三郎『鬼と踊る』(左右社)を読んだので、また以前に同じく三田三郎『もうちょっと生きる』(風詠社)を読んでいたので、その感想を書きます。


メインは『鬼と踊る』のほうになります。書籍情報はこちら(左右社HP)。2021年8月の発行ですね。

ちなみに『もうちょっと生きる』はAmazonのページになりますがこちらです。2018年6月の発行です。


かつて『水の聖歌隊』の感想で、著者の笹川さんを「面識も交流もある人」と書いたように、三田さんとも知り合ってそれなりになるなあという思いです。お二人がMITASASAを組まれるちょっと前に知り合った記憶です。今回の第二歌集の出版を本当に嬉しく思います。

本当は別々に書くべきなのかもしれませんが、『鬼と踊る』を読んで、一緒にして書きたいなあという気持ちが強くなりました。というのも、三田さん、覚醒! という印象がめちゃくちゃ強いからです。九割くらいは「前より良くなった」という気持ち、一割は「前よりヤバくなった」でしょうか。そういうところも含めて、基本的には『鬼と踊る』の感想としてここにまとめておこうと思います。なお、ここで引用している短歌はすべて三田さんの短歌です。


とはいえ、まずは第一歌集の『もうちょっと生きる』がどんな歌集だったかを紹介したいです。二首引用します。

人類の二足歩行は偉大だと膝から崩れ落ちて気付いた (もうちょっと生きる)

飲むときはみな共犯と思うのは私が主犯だからだろうか (もうちょっと生きる)

一首めは歌集の巻頭歌でもあるのですが、まさにこういう歌集です。現実のつらさ×皮肉の効いたユーモア、でしょうか。「二足歩行ってすばらしい」は、確かに普段思わないですし、それを思うときが「膝から崩れ落ちる」とき。ここって誰もがリンクするところじゃなくて、二足歩行できないくらい崩れているというわけです。どんなにひどいことが起きたのか。それを思うときの四つん這い。「おもしろ」の歌ですが、「おもしろ」を超えて、現状やばい、がひしひし伝わります。

二首目はお酒の歌です。むちゃくちゃお酒の歌が多いです。歌集が三つのパートに分かれているのですが、一つ目はさきの現実のつらさ×皮肉の効いたユーモアの歌が並び、二つ目はひたすらお酒を飲む歌が並び、三つ目にその他、という構成になっています。歌集の三分の一が酒です。しかも、酒に強い弱いみたいな話はせず、ただただ飲むことそのものをダイレクトに書き続けます。こわっ。どれもユーモアがあるとはいえ、こわいです。

で、『鬼と踊る』も、そこは結構踏襲しています。パート分けはないですが、どことなく『もうちょっと生きる』に似た構成ではありまして、生きる歌があって、酒を飲みまくる歌があって、それ以外の歌もあって、という感じです。

そしてガラッと作風を変えているわけではないんですが、なんか、「覚醒した」気がします。こう、歌がうまくなったとか良くなったというと『もうちょっと生きる』に失礼ですが、まあそういう要素もあるんだろうとは思います。ただ何より、似たようなことをやっているのに、主体の自我に変容が見られるような感じがあります。

今回はその辺について書いていきたいなと思っています。


まず思い当たるのが、『もうちょっと生きる』は、皮肉が効いているし、ユーモアもあるし、それでつらい現実に相対しているけれど、現実を克服できているわけではないな、というのがあります。さきの膝から崩れ落ちる短歌もそうですが、圧倒的な現実があって、その立ちはだかりようにはもうどうすることもできん、の上のポエジー、みたいな印象です。

単線の電車は遅いと言うけれど人を殺せる速さで走る (もうちょっと生きる)

『もうちょっと生きる』の一つめのパートは、ずっと生死について考えているところがあります。この歌は、どこか電車を「人を轢くもの」が本質だとして捉えている感じがして、「確かにな~」となりつつ、「そういう大変な現実なんだよ……」的な心を感じます。

単線の電車が今朝も這ってきて終点のない日々が始まる (もうちょっと生きる)

そういう電車に乗って生きるしかないのが、「終点のない日々」なわけです。簡単に死ねるし、死のことを思うけれど、なんか生きてるし、いつまで生きてるかもわからない。こういう受動的な無力感というものはすごく共感できますし、普通の人ならそれなりに感じるものだと思います。だから僕は『もうちょっと生きる』に普通に共感しましたし、ユーモアで飾っているとはいえ、普通の人の短歌だなという印象を持ちました。

それが、『鬼と踊る』だと、ちょっと奇妙なんです。もちろんこういった歌もたくさん収録されているのです。

死神から誘いが来ても今日はまだ「行けたら行く」と答えるだろう (鬼と踊る)

これは『もうちょっと生きる』にあってもおかしくない短歌です。「今日はまだ」ということで、いつか「行きます」というときがあるんだろうな、みたいな無力感と、まあ今は生きるか、といった感慨なので。

青信号渡れているぞ待っているドライバーたち正気らしいぞ (鬼と踊る)

このへんから「ん?」ってなってきます。なんでしょう、現実がヤバいというのは、さっきの「人を殺せる電車」の歌と同じです。日頃歩いている横断歩道も、正気を失ったドライバーがいたら命が危険です。その病的な気づきは、現実の安全が「暗黙の了解」でしかないことを指摘してはいます。

ただなんか、語り口がポジティブなのです。この「ヤバい現実」を受け入れ切って、そこで能動的に動いている人、って感じです。「青信号渡っているが待っているドライバーたち正気みたいだ」とはやっぱり違うわけです。ビクビクが皆無というか。

『もうちょっと生きる』にあったのは、ユーモアと皮肉で「なんとなく生きる気持ちになる」けれど「現実には勝てない」人の歌でした。『鬼と踊る』は、「現実には勝てない」んですけど、その上で、この現実を乗りこなしてやるぜ! みたいな。包丁がビュンビュン飛んでいる道だから、避けながら行かないとな! みたいな。そういう人間的な覚醒を感じざるを得ません。


この辺の覚醒、主体の心構えみたいなものにも表れている気がします。繰り返しになりますが、どこまでいってもベースが『もうちょっと生きる』ではあると思うんです。ただ、けっこうな割合で、ある意味強くなった主体がいます。

世の中はカネだと友が苦笑する そういうことは真顔で言えよ (鬼と踊る)

この歌好きすぎるんですが、主体がもはや修羅なのです。「世の中はカネ」であることを主体は否定せず、むしろ切実に肯定しているのです。肯定というか、「現実はそう」を、身に沁みるほど感じているのです。ここで「苦笑」できるのは、どこかそれを真剣には信じていないときだと思うのですが、そこに対して「へらへらするな」と出られるくらい、現実を受け入れきった印象です。

ゴミ箱がないんじゃなくてこの部屋がゴミ箱なんです どこでもどうぞ (鬼と踊る)

強すぎます。ある意味部屋というものはゴミ箱です。結局そこから捨てていくばかりなので。だから言っていることは分かるんですが、やっぱりこれを言える人って、部屋にあるすべてのものをゴミだと見なせる人なんですよね。確かに「世の中はカネ」と同じく、「全ての物はいつかゴミ」なんです。でもやっぱりここに「真顔」にはなれない。この主体はなっている。「どこでもどうぞ」ですよ。

気を付けろ俺は真顔のふりをしてマスクの下で笑っているぞ (鬼と踊る)

なぜなのか、はおいておきまして、主体はこの現実に対して「真顔」でいられるようになったようなのです。ここを僕は、覚醒と感じたんだろうなと思います。この「気を付けろ」って、「マスクの下の笑顔を見たら、ぞっとするでしょ?」な気がしていて、このヤバさに主体は自覚的なんじゃないかと思ってくるわけです。

そうすると、さっき『もうちょっと生きる』にあってもおかしくない、と書いた死神の歌でさえ、「この主体、死神に行けたら行くって言えるのか……」みたいな気持ちになってきます。すごいっすね。

そしてこの辺のヤバさは、いわゆる酒短歌にもところどころ出てくるのが、いよいよ「ガチ」な気がしてきます。

1杯目を飲む決断は僕がした2杯目以降は別人がした (鬼と踊る)

最初で酔って人格が変わっちゃいましたと言えばそれまでですが、「別人」というレトリックと、そこに「決断」を預けている感じが、体内に人外を飼いならしているような印象です。

帰ったら石鹸で手を洗いなさいウイスキーで脳を洗いなさい (鬼と踊る)

アルコール消毒という言葉は確かにありますけど、「脳を洗う」て。

しかし、三田さんの酒短歌は本当に「飲むこと」ばかり書いてあって、「飲んだときにどんな景色が見えるか」みたいなことは書かれないのがすごいです。「飲んだ結果どうなったか」まで一気に飛ばされます。この「飲酒」という行為にダイレクトであったのは『もうちょっと生きる』のころからですが、この修羅感、『鬼と踊る』によくフィットしていると思います。


歌集のタイトル『鬼と踊る』というのも、どうしようもない存在である「鬼」から逃げたり目をそらしたりするのではなく、踊るんだという意思めいたものを感じ、やっぱり三田さんの世界に対する考え方の変容のようなものを感じずにはいられません。繰り返しになりますが、『もうちょっと生きる』では、世界は圧倒的で、従うしかない存在でした。そこと「踊る」からこそ生まれる表現というものもあるでしょうし、それがここまで引用してきた歌たちなのかもしれません。この「踊る」というのは、現実の行動の変容ではなくて、心構えの問題だと思いますので、誰でもこの境地には行けるはずなのです。はず。

あらかじめ朝の虚空に50回謝ってから会社へ向かう (鬼と踊る)

この、「先に謝っておけばあとから使えるシステム」みたいに世界を捉えていそうな感じもそうです。どうせ謝るから練習しておく、というよりも、先にストックしておいて、後で「当然に引き出す」みたいな考え方です。謝らなければいけない世界なんですが、それなりにやりくりもできるぞ、みたいな。しかもそれをひけらかすのではなくて、いたって真剣に。この心構え。

赤ちゃんの泣いている声で目が覚める 僕だって生まれたくなかったよ (鬼と踊る)

赤ちゃんは生まれたくなくて泣いているわけではないはずなのです。ただこの世で生きるには修羅になるしかないという心構えからすれば、この境地になるのかもしれません。

こめかみに前世で自殺したときの古傷がある 笑うと痛む (鬼と踊る)

先の歌と合わせて、この輪廻転生的な考え方が導入されているのも『鬼と踊る』の特徴だと思います。実際、「人生」と題された一首だけの章がインタールードのように適宜挿入され、輪廻感を思わせる「エピローグ」もついてきます。「エピローグ」を読む限りでは、来世があるから大丈夫、と主体が信じている、わけでもない……ことがうかがえますが、ある程度「人生には終点がある」を認識するようになったのかな、とは感じました。

どこまでいっても人生をやるからには「鬼」に打ちのめされるしかないのですが、そこを肯定するというか、「それはそうだから」と真顔になった上で今生を渡る短歌たち、こんな考え方もあるよな……と終始唸らされっぱなしでした。


さて、歌集の内容としてはこれくらいとして、最後に韻律の話をしたいです。

『鬼と踊る』の韻律は、『もうちょっと生きる』より良いです。これはもう、圧倒的にいいです。

口元に笑えば痛むニキビできそれに困らずもう丸三日 (もうちょっと生きる)

やっぱりどうしても、無理矢理57577にしているような歌が第一歌集にはありました。歌としては面白いですが、「ニキビでき」は押し込んだ感じがありますし、「もう」は仕方なく入れた感じがあります。それは基本的に定型を遵守するという意識からくるものだとは思いますが、やっぱり口語短歌ですから、定型に踊らされている感じは避けたいところです。

『鬼と踊る』は、より無理のない定型遵守の方向ではなく、破調も取り入れた自由な韻律の方向に舵を切っていると思います。

歯で噛んだり舌で潰したりしなくてもいいからいい 液体はいい (鬼と踊る)

四句の字足らずからの間が効いています。

膝の裏を洗い忘れているような気がしたら終わり今日はもう終わり (鬼と踊る)

下句の畳みかけ方がそれっぽくて好きです。

歌集を読むからに韻律はどうしても重視せざるを得ませんので、その点だけでも『鬼と踊る』は進化している三田さんの歌集だな、と感じました。


書きたいことが書けましたので、『鬼と踊る』から、引用していなかったけれど好きな歌を三首引用して、結びとします。

心にも管理人のおじさんがいて水を撒いたり撒かなかったり

頻尿の季節がやってきましたね 今日もたくさん便器に会えた

あなたとは民事・刑事の双方で最高裁まで愛し合いたい



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