歌集を読む/山階基『風にあたる』

2021/08/07

歌集

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山階基『風にあたる』(短歌研究社)を前に読んでいましたので、その感想を書きます。

書籍情報はこちら(短歌研究社HP)。2019年7月の発行ですね。


僕は、2019年の秋に行われた批評会にも参加しており、長いこと身近にある歌集だったのですが、どこか一首一首を楽しむ存在で、これについてのまとまった文章を書いてこなかったなあと今思います。一首一首を楽しむだけでも別にいいとは思いますけれど。

それと、2019年5月の東京文フリで、『風にあたる』刊行決定のフライヤーを山階さんからいただいたことを思い出しました。あのときのうれしかったなが、まだ心の中にそのまま残っています。


感想に移りましょう。すでにちょっと書きましたが、僕にとって『風にあたる』は、一首一首を楽しむ歌集の側面が強いです。なぜかというと、一首のレベルが高いからです。おわり。

実際、賞でも高い評価を得た「長い合宿」「コーポみさき」をはじめ、ストーリー仕立てとして読みやすい連もありますが、それですら、僕には一首たちのかたまりに見えました。山階さんの歌は奥行きが広く、書いていないのに引き出せるイメージや想像が非常に多いことが特徴だと考えていますが、それを荒っぽく「行間」と呼んだとして、歌と歌に発生する「行間」は当然ありながら、それがなかったとしても一首に立ち上る「行間」だけで読者として満足してしまう、そういう要素があります。この点について僕が手放しで賞賛するのは、自分もそういう作歌をしているからですので、そういう意味ではとても相性のいい歌集だなと感じます。

上述の「奥行きの広さ」とはなんだろうというのにもう少し踏み込みますと、生活詠を中心に組み立てられるさまざまな景における、時間と空間の重層性なのかなと思います。以下、引用はすべて『風にあたる』からです。

あくまでも細部はぼくが書き換えてしまう記憶の雑貨屋の棚

この歌に相対した時、二つの空間が立ち上がります。現実の雑貨屋と、記憶の雑貨屋です。この二つを並べることで、中間項として「正確に記憶できている範囲の雑貨屋」も浮かびます。この歌は、「あくまでも」という周到な断りかたによって、「思い出せる/思い出せない」を単純な二項対立ではないように提示し、読み手の持っている「思い出す」という行為に対する認識を揺さぶります。加えて、「ここまででも思い出せること」が「よいこと」として「雑貨屋」に属性付与され、読み手は「よい」という感情を引き出されるのです。

ラーメンがきたとき指はしていないネクタイをゆるめようとしたね

この歌も、立ち上げている景は相手との食事にラーメンが来たもの一本ではありますが、「相手がネクタイをしているときにラーメンを食べる景」が残像として追いかけてきます。それは残像なんですが、「ネクタイをゆるめる」という身体的な行為として表出してしまうことを捉えている以上、さっと消えるものではなくて、逆に何本も何本も立ち上げることが可能な景なのです。

白い布はずされながら美容師にまだ引っ越しを伝えていない

この歌は、主体の人生の時間軸に占める「引っ越し」と「美容院」を点で示すことによって、それらをつないだ直線として、リアルに人生の時間軸を思わせることができています。一般的な周期でいけば、次に美容院に行こうと思ったら引っ越しが終わっているのです。どことなくただよう「今しかないけどな」感が、拡張されたタイムラインの中に配置されることで、より読み手の心を打つのではないかと思います。

こうした奥行きの広さを獲得するレトリックとしては、さきの「あくまでも」のような、主体の心情をさりげなく指定することで、書いていないはずの空間を想像させることができるものがあるなあと思います。加えて、初句以前の「第0句」みたいなレトリックの歌も結構多く、それが奥行きにつながっているなという印象です。

でも祖母はあの夏を生き延びたのだ広島行の切符をゆずり

「でも」がなくても短歌として成立するとは思います。広島に行かなかったから原爆の被害に遭わずに済んだ、という事実は、if世界としての「祖母が生き延びず、結果私が生まれていない世界」を立ち上げるからです。この歌は「でも」を最初に持ってくることによって、この感慨以前の「ある事実」を示唆します。それがなんなのかは確定しませんが、「逆説により対置されること」の想像がつき、つまりは生よりは死よりの何かなのだろうと思うことで、「生き延びたのだ」の効果が増幅されて伝わります。

待つあいだ読んでいようと手に取ってめくり終わってしまう気がする

フリーペーパーか何かを思いますが、誰を待つのかは描かれません。それはそこが重要ではなく、「待っている今」が短歌だからに他ならないと思いますが、こういう背景に置けばいいことを第0句に置く、というのも山階さんの手法な気がします。山階さんだけの手法ではないですし、僕もガンガンに使いますが、山階さんが使いこなしているのは確かです。「めくり終わって」が効いていて、じっくり読むほどのものじゃあないんだという、「その読み物」が臨時の存在であるということが、待っている相手への気持ちを裏付けていると思います。

泣いたあと卓にならべる説明のいらない肉と葉っぱのサラダ

ケンカなのかなんなのか、泣く原因になったものが第0句にあります。これも、それが何なのかを当てに行かせることが趣旨ではなく、「こじれた関係性」からスタートしたときに、「いつもの関係性のおかげで」料理に説明が要らないことの、「いま余計な言葉を交わさずに済む」ことのよさとさみしさ、みたいなものが本質かなあと思います。

第0句という言い方をすると揶揄しているようにも見えるのでエクスキューズをしますと、短歌が第0句を当てさせるクイズになってしまうと、そしりを受ける余地はあるかなと思います。僕はそういうのも好きですが。とはいえ山階さんの第0句は、どこまでいっても歌としては背景にあって、首題は書かれているところから立ち上がる感情だったり景だったりしていると思ったのです。批評会に出たときも、クイズ的みたいな話は出た記憶がありますが、それはまあ、目の付け所としてどこを重く見るかだけなんじゃないのかなと感じていました。


一首鑑賞としての総括はこんな感じになりまして、そうなると全体としてはバラバラの歌集ってことですかとなるおそれがありますが、全く正反対だと思います。むしろ、すごくまとまっていて、ちょっと怖いくらいのところがありました。

例えば全体的に生活詠のトーンであるということや、抑制的な文体であるということや、今まで述べてきたような一首立ちが揃っているということや、「ある」ことでそのまとまりを語ることももちろんできるのですけれど、どちらかというと、「排除していること」の大きさが、歌集をひとつのコントロールされた総体に仕上げているんじゃないのかなという印象です。今、僕が思っている「排除していること」は、大きく分けて2つです。

ひとつは、「破調」です。

ほっといた鍋を洗って拭くときのわけのわからん明るさのこと

『風にあたる』はこの歌から始まりますが、この定型が基本の基本です。もちろん短歌なので、57577なのは当然なのです。だからこれが基本で悪いことはなにもありません。ただ、「この速度」という、単なる音数を超えた韻律としての一体感が歌集にあります。

もちろん『風にあたる』にも初句七音の歌はあります。字足らずの歌もあります。下句を9・5に分けるような句跨りもありますし、なんなら三句から四句にかけてだらっとまたがるものもあります。あるんですが、なんだろう、相対的に見たら、「山階さんの57577」の「速度」に吸収されている感じなのです。すごく言語化しにくいのですが、収められているすべての歌の「長さ」が同じなんじゃないのかな、という気分になります。

自分の話をして恐縮ですが、僕が連作を書く時はむしろ韻律のバラエティを目指しますので、隣り合った歌の韻律は基本的に揃えないです。これは好みの問題で正解はないと思っていますが、普段は「歌の長さを揃えないようにしている僕」、つまりは「ほっといたら揃ってしまう僕」の感想として、「とはいえここまで揃えるのはすさまじい」という気持ちがあります。

この揃え方は、短歌としてはもちろん正解なわけでして、模範的な「型」と言っていいと思いますが、ほとんどすべてがこの型にあることの一体感がすごいです。言葉は悪いですが変態的だと思います。

冷えた身の芯まで湯気をかぎながら柚子になり湯にしばらくひたる

文節的には「冷えた身の芯まで/湯気をかぎながら/柚子になり/湯にしばらくひたる」となるところを、定型上の句切れは別のところに来ている歌です。この歌は歌集中終盤の歌なのですが、これを当然のように句切れで区切って読めちゃうのです。そういう、一定感があります。正直に言うとここは好みじゃないですが、感服しています。


もうひとつの排除していると感じるものは、「否定」です。

歌として、何かを否定するようなものがほぼない、と思います。たしかに生活上で「いい」と思ったところを拾っていくならば、否定は排除されやすいですが、そこまで「いい」ばかりを拾っている歌集でもないと思います。どの歌も、寄り添うように描写されているように感じました。

大壜をたすけ起こせばひと夏を切れっぱなしの賞味期限だ

何かの大壜が賞味期限を大きく過ぎていたという歌ですが、「たすけ起こせば」という動作にともなう感情が、この事象に対するネガティブさを消しに行っています。むしろ、この状況を楽しんでいるようにも思えます。こういう詠いかたはほかの歌人の歌にもあるとは思いますけれど、徹底して、何かに対してだめだ、よくない、と認定するような歌のなさがあり、転じて全体的にとてもやさしいまなざしの歌集という印象を持ちます。

書きながら思ったのですが、この否定のなさというのは「決めつけ」のなさにもつながっているようです。短歌のレトリックとして、人やモノを「こうだ」と修辞して断定するというのはむしろ賞賛される傾向にありますが、そこには主体の感じかたを強制する暴力性があると感じます。それでもそう思う、を貫くことはいいと思いますが、そこに無自覚なのもなんだかなあという思いです。『風にあたる』は、そういうところを丁寧にかわした詠みの徹底を試みているようです。

笑むうちに切れる通話の向こうには布団がゆるくふくらむだろう

相手のことを想像した歌ですが、「ふくらむだろう」の断言はありません。また、「ゆるく」というふくらみかたの態様についても、決めつけととられないような範囲での詠みになっていると思います(感じ方かもしれませんけど)。このあたりほんとにないのかなと思って頑張って探したんですけどなかったです。

銀紙のちぎれた端を口にしてからすにも立ち尽くすことあり

せいぜい、この歌の程度くらいかなあ、です。「尽くす」はけっこう踏み込んだ言い方なので。とはいえ、そういう「からす」って見ることができるんじゃないかという予感もあり、意地悪に読んでいってようやくひっかかる、くらいかなあというところです。

その意味で、『風にあたる』にはあえて存在しない要素もあり、それはおしなべて歌を丁寧で読みやすくする方向に働いていますし、それぞれの歌の読みどころは様々で飽きることはないのですが、さすがに、ここまで徹底していると、統一感がすごいなという印象はありました。人間よりもよっぽど心が発達しているロボットのような存在を想起したのは、『風にあたる』に並ぶ歌の人間的な部分と並べ方の機械的な部分を思ったからでしょうか。とにかくすごいです。


ここまで、『風にあたる』には生活の「いい」が詠われている、否定の歌がない、決めつけの歌がない、と書いたものの、主体自身のことを詠うときには、ネガティブな心象や自分自身のしっかりとした把握がある、ということは書いておきたいと思います。自身のことなので、決めつけがあったとしても違和感はありませんし。

友人が嘔吐している 友人はわたしの前で嘔吐ができる

この歌は、「わたしの前で嘔吐ができるなんで、こいつめ」という歌というよりは、「わたしが人前で嘔吐することができる人は誰なんだろう」の心象の歌であるように思います。現実には、友人も基本的には「わたしの前で嘔吐」はできないけれど、あまりにしょうがなかったのかもしれませんし、「友人とわたし」について「実際どうなんだ」というところは読み切れませんが、「人の前で嘔吐をする」という行為と「わたし」のリンクがあります。

ふんわりとぼくの好みがけなされる飴をひだりの頬に転がす

好みがけなされたら誰だってイヤですが、それが「ふんわり」であったときの、反論しにくさがうまく身体感覚と結びついている歌だと思います。頬が飴でふくれるかどうかはわかりませんが、そう近づけているというのもよくわかります。これは生活の「いい」ではないでしょう。とはいえ、生活を通じて主体自身が抱えた不快であったり、寂寥、いらだち、そういったネガティブな気持ちもしっかり『風にあたる』を構成しているのだなと感じました。

飴の歌は心情と身体感覚がきれいに結びついて読める歌ですが、そういう身体感覚をうまく発揮している歌も多いです。多いのに、書きそびれていました。

菜の花を食べて胸から花の咲くようにすなおな身体だったら

の、「現実のすなおじゃなさ」が、上句のたとえから想起する「わかりやすい身体反応」の逆を思わせる感じですとか、

痩せていく身体を舟としてついに踏むことのない桟橋がある

の、痩身の頼りなさと船旅の連結の感じです。「痩せている」ことを契機にした歌は歌集中多いなと思いました。また、この「桟橋」は、おそらく自分の中だからこそ出てくる概念なのかなあと思います。これを他人に勝手に作らないのが、『風にあたる』のトーンといいますか。


まとめると、韻律の統一感と一首の成立をもって、他者に対する決めつけを極力おさえ、自分とその周辺の生活詠をやっている歌集だとも言えるかと思います。その手法からとにかくやさしく、読んでいてストレスのない世界が立ち上がりますが、最後にちょっとだけ、「ばか」の話をして終わろうと思います。

ここまで述べてきたことと矛盾しないと思いますが、『風にあたる』の言葉遣いは上品です。上品というか、下品な言葉が省かれていると思います。

その中で、強いていうとしたら、「ばか」なのかなあというのはありました。ちょっとしか出てこないですけれど。

三基あるエレベーターがばかだからみんなして迎えに来てしまう

ボトル缶まわし飲みしてうつる風邪ばかの数だけばかの引く風邪

「ばか」そのものがののしり言葉なのは確かですが、使われ方としては親愛も込められている用法だな、という印象です。まあ、まわし飲みの歌は、このコロナ禍の今に発表されたとしたらだいぶ違って読まれてしまいますが、あくまで2019年の歌集です。

これを通じて何を言いたいというわけでもないのですが、通読していて、山階さんの歌の言葉遣いとして、とりあえずこの「ばか」がラインになっているのかなと思った、ということは、なんとなく書いておきたくて書きました。

そして書きたいことが一通り書けましたので、引用していない歌から特に好きだった三首を引いて結びとします。

バスに乗るために走っているように見えただろうかバス停からは

ひと跨ぎできるつもりがやや高くいちど腰掛けてから急いだ

話さなくなったあとにも口ずさむ歌詞によく似たメールアドレス


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