歌集を読む/平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

2021/07/24

歌集

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 平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』(本阿弥書店)を読んだので、その感想を書きます。

書籍情報はこちら。2021年4月の発行ですね。本阿弥書店のホームページのリンクを貼りましたが、これ今後もちゃんと機能してるんでしょうか・・・ちょっと本阿弥さんは心配になります。


平岡さんと面識がないと言ったら嘘になりますが、文フリ会場で何度かお会いしてちょっとお話させていただいたくらいなものなので、そういうことを特に意識せず、歌集の向こうの人って感じで相対することができました。これって「そんなこと関係なしに読めよ」って言われそうなことなんですけど、現実、顔見知りであるという事実が読みに影響しないわけがないんです。

読んでさっそく、めちゃくちゃ怖い歌集だと思いました。「怖くない?」ってTwitterで言っちゃいました。小規模な非公開アカウントだったのでそんなに反応はなかったですけども。

一言で言わなければならないとすれば、魔術的な歌集だと思います。ほんとは呪術的な歌集だと言いたさもあるんですが、うーん。けなす意味が入ったらいやなので。とにかく、やられました。すごいです。これを結論として、読みに入っていきたいと思います。以下、引用はすべて『みじかい髪も長い髪も炎』からです。


冒頭に魔術的な歌集と述べましたが、この真意の多くを占めるものは、イメージの飛躍を伴う歌が多いということです。イメージの飛躍と言うとどうしても笹井宏之を思い浮かべますが、あのようなどこか無邪気な、おもちゃで遊んでいるかのような飛躍のさせかたではなくて、我妻俊樹のような急転直下の感じに近い気がします。加えて、もってくるイメージは「あるもの」というより「つくりだしたもの」であるような印象があります。

わたしたち浮浪者だっけ、歯にメモを書いてつぶれたペン先だっけ

「浮浪者だっけ」という問いかけに、多くの読み手は「違う、しかし〈浮浪者的〉かもしれない」という気分になると思いますが、そこからの飛躍がすさまじいです。そんなことするかよ、の、成れの果てが出てきます。「浮浪者」を上回るインパクトです。でもどこか、「用途から外れた常軌を逸した行為でダメになった存在」という抽象は受け取れてしまいます。

サボテンのかたちに積もる雪の中なにがお金で買う女の子

これも強烈な飛躍が含まれています。下句を「なーにが〈お金で買う女の子〉だよ」というニュアンスでとることは可能ですが、「お金で買う女の子ってどんなもの」のほうでも聞かれている気がします。上句で示される雪のイメージは、人が埋まっていてもおかしくはなく、どきっとさせられます。

こういう飛躍の構造の歌は、メソッドとしては現代短歌に確立されており、僕も試みるところではあるのですが、なんというか、「既存のものを引っ張ってきてぶつける」領域を超えてきている印象です。もちろんその領域の歌もたくさん歌集中にありますが、上記のような「ただ借りてきていない感」が、イメージの魔術性を高めているのだと思います。あんまりこういう言い方はしたくないのですが、イマジネーションの凡・非凡を分けたときに、非凡の領域にいる表現たちです。

こういった創造的なイマジネーションは、身体感覚とも密接であると思います。身体感覚をともなう歌は、普通の歌集と比べても多い方じゃないかなあという印象です。

きみの骨が埋まったからだを抱きよせているとき頭上に秒針のおと

そりゃそうなんですが、「きみの骨が埋まった」をあえて言われることの体の物質性よという感じです。結句はどこか死への時間を想起させる飛躍がありますが、肉体の死、みたいなものを強く思います。この「きみ」ゴーレムみたいです。

雨の夜の火事をのど奥に飼いながら地図上のロンドンをゆびさす

「のど奥」にあるのが「雨の夜の火事」、絶妙ですね。燃えているけどちょっと消えそうで、でも誰も消しに来ていないみたいな感じ。なにがあったのかはわかりませんが、「ゆびさす」の言わない感じ。想像の余地がふくらみます。

平岡さんの歌集をこわいと思ったのが、これら想像されるイメージの数々が、「善いもの」ではないからです。どちらかといえばグロテスクで、歌を通じてイメージを自分の心の中で再現するにあたってビビッてしまうようなもの。けれど、ただ怖がらせにかかっているんじゃなくて、人間が本質的に抱えているところにリーチしているようなもの。

ベビーカーにいちばん怖いもの乗せて一緒に沼を見に行きたいね

ふつう、ベビーカーにはかけがえのない赤ちゃんを乗せるわけです。そこに、赤ちゃんとは対極の概念をのっけた上で行く「沼」では、きっと「それ」を捨てることを考えてしまうでしょう。そういう「たいね」の願望は、僕の中にないとは言い切れません。平岡さんの歌には、赤ちゃんや子供を手放しでかわいいと思っていないような歌がほかにもありますが、こういうとらえ方もその一つだと思います。そしてそれが、肉体的にはきっと正しいのです。


以上が歌集全体を俯瞰したときに思うことですが、この幻視的な手法は平岡さん自身があとがきで「歌集として差し出せるのも自分のみている幻覚ばかりである」と書かれているように、意図的な平岡さんの作歌姿勢なのだろうと思います。「幻覚」であれば自由自在ではあるんですが、普通の人間は幻覚でも観念できるものの範囲が「現実」をなかなか超えられないところを、ゆうゆうと越境していくのがすさまじいところです。

飛車と飛車だけで戦いたいきみと風に吹かれるみじかい滑走路

冬には冬の会い方がありみずうみを心臓とする県のいくつか

「飛車と飛車だけで戦う」「みずうみを心臓とする県」、この想像力なんだ、と思います。これとは全く別の文脈で、キャッチコピー的短歌という概念が存在しておりますし、まあ言いえて妙だなあと感じはするんですが、ほんとうはこういう歌こそが「キャッチコピー的短歌」であり、その領域に至れない我々が「キャッチコピーすらつくれずに」のたうち回るのが短歌界のあるべき姿なんじゃないかなあと思ったり。別に平岡さんがそうだと申し上げるつもりはないですが、自分の作歌にあたってもっと人間やめようと思うに至った次第です。

話が逸れましたが、平岡さんの歌の幻視性についてもう一つ考えてみることとして、実景の少なさが挙げられます。少なさ、というか、薄さでしょうか。実景を詠んだであろう歌がないわけではないのですが、生活のささやかなところに着目することで見えてくる実景の愛しさ、みたいな勝負のしかたを全くと言っていいほどしていないように感じます。

できたての一人前の煮うどんを鍋から食べるかっこいいから

まだ生活詠っぽいといえば、で一首引きましたが、これも歌のキモは「かっこいいから」だと思います。「かっこいいから」がなかったら、「合理的だから」のところを、「私の心」を通している、そこにおおっとなるメカニズムは、実景をけして濃くするものではないお思います。

三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった

代表歌とも言いえるこれも、「三越のライオン」という比較的実景よりのアイテムが持ち込まれていますが、下句の感情のボルテージが、実景を象徴レベル以上のものとして読み手に伝わることを阻害しているような感覚です。「悲しいだった」が主役なのです。

わたしにも父のと同じイニシャルがあるけれどそれ壊れているの

歌集中、父や弟といった家族関係を思わせる歌はいくつか出てきますし、とくに父との関係性についてはあまりよくないものを感じますが、そのことそのものを歌として伝えたいというよりは、そこから視えてきたものが歌になっているような印象でした。


さて、幻視だとか魔術だとか言っていると、自分が視てきたものを伝えるような短歌を想像しそうになりますが、ここまで引用してきた短歌にもいくつかあるように、平岡さんの歌は語りかけるようなものが多いです。しかもそれは、幸せになろうとか純粋に好きだとか、甘い言葉ではなくて、生死に関することであったり、現実の非情さのことであったり、我々の存在そのものについてのことであったりしています。

ああきみは誰も死なない海にきて寿命を決めてから逢いにきて

二回出てくる「きて」は並列ではないように読みました。まず「誰も死なない海」に来てから、そこであえて「寿命を決めて」逢いに来てという感じ。こういう欲望は、限りある生を肯定していますし、それと同じくらい「不死」を否定しています。「不死」とは非現実的ですが、それを非現実的だと言い切ってくれ、を、「きみ」に求めている歌です。

すごい雨とすごい風だよ 魂は口にくわえてきみに追いつく

「口にくわえて」が誰なのか問題はさておいて、誰であっても「魂」が「口にくわえられる」ものであるという認識は、そのまま生の軽さにつながっていくと思います。さわやかな文体のようでいて、現実ってこの雨と風のあるところなんじゃないでしょうか、という気分になってきます。

主体にとっての「きみ」は、主体の想いをぶつける存在であることが多く、それが相聞感情のように読める歌もありますが、根本はこういった存在論的な感情なのではないかと思います。「クソデカ感情」と言ってしまうと語弊があり、なぜならインターネットミームとしての「クソデカ感情」は、しぼませれば普通に把握可能なものであることが多いわけで、しかしそれでももっとしぼみようがない、果てしのないタイプの「クソデカ感情」として、平岡さんの歌の中で輝いていると思います。

それと同時に、永遠/刹那の二元論を持ち出したときに、『みじかい髪も長い髪も炎』は刹那寄りの歌集なのかなとも思います。それは瞬間のことでもあり、人間の一生以上の時間であることもあるのですが、どれも「有限」の話をしているようにも思います。

めをとじて この瞬間に死んでいく人がいるのを嘘だと思う

この「嘘」は人が死ぬことではなくて、自分が目を閉じる瞬間に合わせて人が死ぬことのように感じます。目を閉じる瞬間ではなくとも、なにか指定した瞬間に。瞬間とどこかの死を因果関係で結ばずとも感じてしまうこと、それが、限りある現実なんだと思います。

述べてきたように、『みじかい髪も長い髪も炎』は、魔術的なイメージの想像と他者への想いの発露がすさまじい密度でこもっている歌集だと思いますが、この「発露」については、より狭く、パーソナルにはたらいている部分もあると思います。冒頭「呪術的」とも思ったというのはここが理由なのですが、言葉が呪いであるとすれば、平岡さんの歌は人を呪うだけの十全な力が備わっていると感じます。

メリー・ゴー・ロマンに死ねる人たちが命乞いするところを見たい

「メリー・ゴー」はr音にかかる枕詞的な要素がありながら、「たのしく」という意味合いもあると思いますが、「〇〇のためなら死ねる」みたいな言説を僕は思い浮かべます。そういうところに望む「命乞い」は、残酷な発想だと言ってしまえばそれまでなんですが、どこか「見たい」を超えた「してくれ」まで言いに行っている感じがするのです。

いつか死ね いつかほんとに死ぬことのあいだにひしめく襞をひろげて

「いつか死ぬけどいつか死ね」という歌ですが、「おもしろ」の文脈では一切なく、下句の圧倒的な執念から「いつとは言わんが運命よりは早く死ね」の気持ちが純粋に伝わってきます。この二首はとくにダイレクトに「死」を願うものなので極端かもしれませんが、平岡さんのレトリックから繰り出される語りは、祈りと呪いは紙一重、どころか全く同じものなのではないかという気分にさせられました。

水玉に塗られた干支の動物の胴 わたしにも舌禍はあった

「舌」がモチーフの歌は歌集中けっこうあって、キスをイメージするものもありましたが、それよりも言霊に関わってくるもののほうが印象的でした。

言いたいことは以上として、ちょっとだけたわごとを添えておこうと思います。もしも短歌が呪言になるとすれば、定型というのは呪言をなすための装置になるのかもしれません。それは何が何でも57577を守るという意識もそうでしょうし、口語で韻律をつむぎつつも57577をこわさない、という意識であってもそうだと思います。

三〇歳を抜けたる先の麦の穂のなんて壮大なボーナストラック

平岡さんの歌にときおり混じる文語表現は、それが短歌であるという意思表示でもあるのかな、ということは思いました。


書きたいことは書けましたので、引用していない歌から三首、特に好きだった歌を引用して結びとします。

家よりも大きなものは着られないのにどうやって逃げるというの

洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音

シュレッダーを通ってきたという顔に頬を寄せるあたらしい顔だよ


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