歌集を読む/小坂井大輔『平和園に帰ろうよ』

2021/06/27

歌集

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小坂井大輔『平和園に帰ろうよ』(書肆侃侃房)を前に読んでいましたので、その感想を書きます。

書籍情報はこちら(書肆侃侃房HP)。2019年4月の発行ですね。


僕は2019年の7月から名古屋に移り住み、すぐに平和園で小坂井さんにお会いしたので、なんとなくこの歌集は自分が名古屋に行く際のお守りみたいな感覚だった気がしています。でも、そういう自分の境遇とは完全に分けて歌集について書いておきたかったので、今日書きます。


歌集を読まれた方はお分かりと思いますが、とにかく破天荒な一冊です。歌に含まれるエピソードが尋常じゃないくらい濃い。端的に言えばぶっ飛んでいます。主体のエピソードも、周囲のエピソードもしっかりぶっ飛んでいて、嘘でしょとか誇張でしょとか言いたくなる気持ちを寄せ付けない強さがあります。以下、引用はすべて『平和園に帰ろうよ』からです。

土下座したこともあるんだブランコに座った男の靴に踏まれて

初句二句の告白からダイナミックですが、その先を行く壮絶な景。それでいて、どこか「ブランコ」越しであることにおかしみがあり、またこういうことをケロリと言えてしまう主体に笑えてしまう余地があります。この歌の入った連作「スナック棺」は破天荒な主体の信じがたい出来事でつづられており、この人に押し寄せている現実のヤバさが伝わってきます。

椅子に座ったおれごと大外刈りをした警官のおかげで今があります

あるのかないのかわからないような強烈なエピソードは歌集の全体にちりばめられていて、そのトーンが非常にそろっています。どこか主体がけろっとしているのです。平気な顔でしれってとんでもないことを言う感じ。笑っていいですよ~、みたいな余裕に終始満ちています。

家族の誰かが「自首 減刑」で検索をしていたパソコンまだ温かい

エピソードのヤバさは、周囲にも存在しています。「そんなこともあったね」で終われない「今」が温かく押し寄せてくる不穏さ。何があったんだと思わせる景です。

友達がご飯食わせてくれるかと隣の家からすごい声する

そういうお叱りの背景に何があったんだと思わせる壮絶な声です。この「声」が結となるストーリーを思い浮かべてみろと言われればできてしまうくらいの、しかし実際何なのかわからないもの。こういう歌も主体は平気な顔で描写だけしています。そこに何か感情が挟まれているわけではないですし、感情が挟まれる歌はむしろその感情自体がぶっ飛んでいたりします。

ざっと四首引いてきましたが、このトーンは一冊を通貫しているため、面白くて笑える要素に非常に満ちている歌集です。とはいえ、その要素の本質は「ヤバい現実」なので、不穏な気持ちにもなる、読者という他人事目線だからこそ楽しめるようなつくりだと言えます。この「つくり」は、小坂井さんが意識しているところだとは感じます。


こんな歌集ですから、気になってくるのは主体の自己評価です。これらの「平気な顔」はどうやって出ているんだろう、主体自身は主体のことをどう思っているんだろう、というのは、気になる前に頻繁に歌集の中で登場します。

値札見るまでは運命かもとさえ思ったセーターさっと手放す

歌集の冒頭の歌からすでにそれがうかがえます。すごく共感性の高い歌だとは思うのです。ただ、普通の人は「いいなと思ったら高くてやめた」くらいなのです。「運命かも」とまで思ったのなら、高くても買っちゃうでしょ、って人もいるとは思います。少なくともこの主体にとって「運命」は軽いものです。自分のことを、そういう軽さがある人物だと表明していることにもなります。

消費期限三日過ぎても生牡蠣は生牡蠣ほんとは逃げているだけ

さきの「土下座」の歌のように、自身のダメな話自体は包み隠さず読者に提出されますが、時折もう少し主体自身に踏み込む歌もあります。上句の「生牡蠣は生牡蠣」とはある意味豪胆な気概です。生牡蠣なんて食あたりのリスクの高いものって、消費期限の重みがあるでしょう。そういう啖呵を切ったあとで、下句に展開していきます。いろんなぶっとびエピソードをしれっと出すばかりではなくて、自分に真顔になるときがあるのです。

年収を記入する欄だけ書いてないけど周りの人はどうだろう

この真顔になる感じ、我に返る感じは歌集中しばしば出会えるものです。この歌から読める、自身の経済状況を表に出したくない気持ちと、そこをもう一段階深刻になる気持ち。『平和園に帰ろうよ』は、自分の心情は省略した上で繰り出される「ぶっ飛び」の合間に、自分の心情から逃れられないリアルな瞬間が現れます。そのほとんどは、不安、焦りといったネガティブなものです。

こう書くと、そこにギャップがあるのです、と手癖で文章を続けてしまいそうですが、僕はあまりそういうものを感じませんでした。むしろ、そういうネガティブな心情って絶対あるでしょ、ああやっぱりあるよね、よかった、という安心というか。言葉が悪いですが、こういう歌がないと、サイコパスの歌集に見えてしまうのです。ちゃんと自分の人生を見つめた上でぶち立てる破天荒な世界観だからこそ、読んでいて真に楽しいのだと思います。


それでも『平和園に帰ろうよ』の文体はポジティブなものが多く、そうするとこの主体は世界に対して肯定的なのだろうか、と勘繰ったりもするのですが、そこはもう少し考えてみたいところです。なんとなく主体の世界観をうかがい知れる余地も、この歌集には満ちていると思います。

一万円ですかと弱った声を出す運転手と聞くハザードの音

は、エピソードのあとに世界を描いている歌だといえます。お釣りがなくて困る運転手と、こっちもこれでしか払えない自分とがいて、タクシーの停車中だからハザードランプがたかれている。カッチカッチ言っているそれは、時間が可視化された世界のようです。そこに情はありません。しょうもないエピソードかもしれませんが、世界は非情なのです。

この、世界は非情であるという認識は、小坂井さんの主体の根底に流れているのかもしれません。だからこそぶっ飛んだエピソードも平気で流せる。どう思うかとかじゃなくて、そんなもんなんだよ、という現実をしっかりつかんでいる感じがします。それはすごくフラットな感覚で、だからこそそれにネガティブになることもあるのでしょう。

生まれたということそれは世界という大きな詩の一篇になること

この歌に注目したいのは、まず「生まれた以上は世界に組み込まれる」という意識です。世界は非情なんですが、逃げることはできない。しかしその非情さは「詩」であるというのです。誰かの身に起きたことは、詩なのです。どんなことであっても、良くも悪くも世界を彩ってしまう。そう考えると、この歌集の中のさまざまなエピソードの切り取りも、主体にとってはめちゃくちゃ詩なんだな、と腑に落ちるのです。人それぞれではある「短歌をやる意味」の一つが、ここで明確に示されていますし、これに影響されたっていい、と思えてきます。

警官に羽交い絞めされてる人がああーって叫んだあとの静寂

だからこの一景も、立派な詩なのです。笑えてこようが情けなくなってこようが、詩なのです。

傾向的に『平和園に帰ろうよ』はエピソード重視の歌集だと感じますが、たまにエピソードは事実なのか創作なのかが取りざたされることがあります。そうなるとこの歌たちはにわかに事実だと信じがたいところもありますが、そこで重要なのは歌集のトーンなのではないかと僕は思っています。歌たちのリアリティのトーンが揃っているかどうか。ここがバラバラだと、この歌はうそくさいなと感じてしまう余地があります。そういう意味では、非常にトーンの揃った歌集だと思います。なので、読んでいて気になることはありませんでした。

ここまで述べてきたように、この歌集は主体の確固たる世界観を存分に発揮している歌集だと思うのですが、「人が死んだ」エピソードがほとんどないことに気がつきました。誰かのお葬式でのエピソードなどはあるのですが、自分や周囲のぶっ飛び具合からすれば「結局死んでしまった人」はいてもおかしくないくらいなのに、そういう描かれ方はしません。

これはやっぱり、死んだら終わりという意識の表れなんじゃないかなと思います。「詩」なのは、生まれて生きている間のことだよともいえそうな意識。そういうものは感じました。

ちょっとオレ他界してくるわって顔していた祖父のように逝きたい

お辞儀した時に地球を撫でていたマフラーの先みんな生きたい

「いきたい」歌を二首引きました。僕は上述の文脈で受け取りました。


そろそろまとめにかかりますが、『平和園に帰ろうよ』は人間讃歌讃歌のようでいて、その実世界そのものにはすごくフラットな把握をしている歌集であるように感じました。その上で、生まれたからには生きないと、という力を感じる歌集でもあります。

スルーしていた韻律の話に触れますと、すごくぎゅうぎゅう詰めの印象です。初句七音が多用されるのと、助詞の省略が非常に目立っているところ、意味上の句跨りが多いところ、字余りも多いところがこれを構成していると思うのですが、短歌の枠を使ってめいいっぱい体をはるぞという意識にも読めてきます。

今まさに取調室で冤罪を晴らしている人達よがんばれ

「今まさにこういう人が世界のどこかにいるはず」という感覚は、それが何であれ天啓のように身を打つものですが、当然こんな人だっているわけです。その人たちはかわいそうですが、しかし世界はそういう仕打ちを与えるものなのです。だから、「がんばれ」なんだろうなと思います。

ベースがフラットであって、無だからこそ、好き放題言えるし、言っていこうというスタンスは、読み手に元気を与えてくれるものだと思います。歌集中、そういう歌もたくさんあります。

ミルフィーユこぼさず食べる見てなさい大人の本気はおもろいでしょう

ありとあらゆる部分を使い自販機のボタン同時に押せよ 叶うぜ

ですのでこういった歌を取り上げて、人生に対して肯定的な歌集です、というのはたやすいのですが、そして結論そうなんだろうとは思うのですが、その肯定の根っこには、世界は厳しいという、目をそむけたくなるものから逃げられないという感覚があるんじゃないのかな、と思ったので、書きました。そしてそういうベースがあるほうが、心にしっかり刺さってくるように、個人的には感じます。


書きたいことを書けたので、引用していない歌から特に好きだった三首を引いて結びとしようと思います。

一発ずつだったビンタが私から二発になって 進む左へ

「実家の犬の名前がまたもベルです」と姉からメールが久々に来た

三畳一間の部屋にグランドピアノ置くような不安が漠然とある




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