歌集を読む/工藤吉生『世界で一番すばらしい俺』

2021/06/06

歌集

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工藤吉生『世界で一番すばらしい俺』(短歌研究社)を前に読んでいましたので、その感想を書きます。

書籍情報はこちら(短歌研究社HP)。2020年7月の発行ですね。

僕が「インターネットで短歌をしています」と言うたびに頭をよぎるのが工藤さんでして、やはりブログなどでのネット上の個人活動に精力的な方ですから、この程度で言っていいのかなあと思ったりしてしまいます。ともあれ歌集の感想です。


まず、このブログで取り上げる歌集はこれが五冊目ですが、今までで一番、ストーリー性のある歌集だなとは思いました。まあ、どちらかといえばこういう構成のほうが歌集のスタンダードに近いのかもしれません。

受賞作や最終候補作を中心に、連作ベースでまとまった進行があり、そこを一貫して工藤さんの主体が存在しています。そしてこの主体は、工藤さん本人と非常にリンクする人物として読んでも差し支えないようです。少なくとも工藤さんは、あとがきで「オレ・工藤吉生の第一歌集」と書いておられ、主体はずっと歌の中で「オレ」と言い続けています。

それもあって、すごく「一人のひと」が立ち上がる歌集です。最初の連作「校舎・飛び降り」五十首で、高校生の頃に好きな人に告白して失敗し、校舎から飛び降りた経験が濃く描かれています。その後の連作はすべて、三十代後半の「オレ」の歌となりますが、やはり「校舎・飛び降り」は主体の若さやあふれる心が粗っぽく描かれている余地があります。以下、引用はすべて『世界で一番すばらしい俺』からです。

これほどにオレはあなたを思ってるならばあなたはオレをどれほど

歌集を読み進めるほどに、こういう心の出し方はこの連作だけだな、という気持ちになります。歌集を通じてネガティブな心象はよく出てきますし、この歌も「あなた」は高嶺の花っぽく捉えていますが、どこか「オレ」と「あなた」をつなぐ希望をまだ持っている感じ。これが潰えてしまったというのが、のちの作歌のベースになっているようです。

十七の春に自分の一生に嫌気がさして二十年経つ

「校舎・飛び降り」の次の連作でさっそくそれを明確に歌にしているのが、なんともかなしくメルクマール的です。もっとも、ここから後に出てくる歌の質感にふれていくと、かなりこの「飛び降り」は「オレ」にとって決定的だったのかもしれないなという気持ちになります。正直を言うと粗いところのある連作だなあと感じていたのですが、そのマイナスイメージはあとから抜けていく構成になっているように感じます。


『世界で一番すばらしい俺』の帯には穂村弘さんの「高度な無力感が表現されている」という言葉があります。これは工藤さんが短歌研究新人賞を受賞したときの講評からだったと記憶していますが、なかなか切れ味のあるフレーズです。でも確かにそんな感じがあります。歌集中、自分が無力だと感じる歌は多いですが、その際の自身の客観視のレベルが奇妙に高いのです。

守衛の見たオレは涙を流しつつ廊下を歩いていたのだという

「校舎・飛び降り」中の歌ですが、そこからすでにこの客観視は「オレ」の中に始まっていますし、

戦えばオレをぶちのめせるだろう中学生の低い挨拶

このあたりも、強そうな中学生っていますしそりゃそうなんですけど、「戦えば」の、「ケンカ」とか「カツアゲ」とか、そういうステージから一歩正統的なステージに自分を上げて考えている感じ。そして「ぶちのめされる」ことを思う感じもそれっぽいです。

非常時に壊せる壁を壊すのはオレには無理だオレにはわかる

この歌も、確かに、やったことないので無理そうだなって思うこと自体は共感できるんですけど、ダメ押しのような結句で「無理」を言ってきます。自分の無力さをひととおり検討しきったうえで、無力ですと言われているような感じがあって、無力さに対する悔しさのような感情とは一線が引かれている印象です。

この、無力であるという「事象」と、それに対する「感情」って、普通はくっついているものだと思います。「無力感」ってそもそもこの二つがくっついて出てくるものだと思いますし。思うに、工藤さんの歌はそこにメスを入れているようです。やや話はズレますが、観察の歌についても、そういう分離の視点はよく見て取れます。

ヨーグルトを容器とフタとスプーンとスプーン袋にして食べ終える

この手の解体のレトリックは先行歌があるかもしれませんが、「スプーン袋」まで「ヨーグルト」なんだよという把握を前提としてからバラしているのは大変面白いと思います。

「仙台駅」三文字「SENDAISTATION」十三文字で大差がついた

この「大差」は、「事象」でしかないはずなんですが、「事象」だけを分離して持ってくるかのような書きぶりで、「感情」がついてきちゃう歌だなと思いました。

「事象」と「感情」が分かれているからか、どこか工藤さんの歌はネガティブでも余裕を感じます。別に、「事象」に対して「オレ」がつらそうではないというわけではありません。つらそうですし、イヤそうですし、まいったなあって感じなのです。しかし、普通はもっとそういう感じは「事象」に寄り添うと思うのです。そこに一枚かんでいる感じが、穂村さんのいう「高度な」なのかもしれません。僕はこれが「高度」なのかわからないですが、「感情」が切り離されている(離されているだけで、捨てられてはいないですが)これらの歌は、諦観的というよりは克服的であるようには感じるのです。

余裕があるからこそ、ユーモアも交えることができちゃうのが工藤さんの歌のいいところだと思います。

すこしなら呪われたっていいでーす 駅で運ばれてる段ボール

上句の発話が「オレ」だと確定してはいませんがそう読んでしまいます。たくさんは呪われたくはないのです。が、下句の機械的な動きと連動して当然に思うくらいには、「少しくらい」の「呪い」は、あって、やってくるんだな、という感慨です。

腹をもむ いきなり宇宙空間に放り出されて死ぬ気がすんの

この「気がすんの」って、どこか自罰的というか、「自分はそういう目に遭うだろう」という予感があるから出てくる発話だと思うのです。そんなことはないんですが、そう思う「オレ」ってすごく無力なんじゃないでしょうか。

無力感があると、「こう変えたい」とか「逃げてやる」とか、そこから抜け出すアクションに移りそうなものですが、そうはせず、無力感のステージに居続けたまま正確に把握する、というのが工藤さんの歌の特色なのかもしれません。そして、その視座に立つということは、ひとつの無力感との戦い方、折り合いのつけ方なのかもしれず、読んでいてちょっと元気をもらえるところもあるのです。

膝蹴りを暗い野原で受けている世界で一番すばらしい俺

表題歌にして歌集のトリを飾るこの歌も、その文脈で僕には読めました。


そういう誘導になっていたら意図していないところなので、工藤さんの歌の主体が、こういった無力感をはねっ返している、気にしないで生きていけている、というわけでは全然ないということは申し添えておきます。

なんとなくいちごアイスを買って食う しあわせですか おくびょうですよ

「いちごアイスを買って食う」ことって、絶対マイナスではないのです。だから、そういう自分に対して「しあわせですか」と問いかけがくるのは分かります。それが結句で「おくびょうですよ」と外した回答になる。「しあわせですか」のYES/NOを放棄しているかといえば、「おくびょう」が持つNO寄りのニュアンスに引っかかるものはあります。ともあれ、自分は「おくびょう」だと認識しているのです。なお、引用歌の次には、こんな歌が続きます。

わかるけどそうは言っても死んだまま一生過ごすことはできない

僕はこの歌が結構歌集全体を言いに行っている、言いに行けるアイデアなんじゃないかと思っています。「死んだように生きる」ことって無理なんです。「校舎・飛び降り」で「オレ」は飛び降り自殺を図りますが、軽傷(?)で生き延び、「死ぬことの大変さ」を思い知ったことでしょう。生きることから逃げること自体はできますし、実際そうしてしまう人はいますが、そこに必要なパワーは絶大です。そのパワーに対して、三十代後半となった「オレ」は「おくびょう」なんじゃないのかなと感じました。


無力感についての考察はひとまず以上として、工藤さんの歌の中の「オレ」の自身の把握について、思ったことを書きます。

どうも、「オレ」は、周囲から見て自分が「ヤバい人」なんだという自覚があるようです。

風景を見てるつもりの女生徒と風景であるオレの目が合う

もちろん、「女生徒」は「オレ」なんか眼中にないという歌だとは思うのですが、「目が合う」ことで「女生徒」が把握する「オレ」はきっとよくないだろう、という意識のにじみが見える歌です。

「品性がない」と聞こえて自動的に首からグンと振り向いていた

自分のことを言われたかのようなシチュエーションのようでして、首からいくというのは命知らずな感じもあって必死さが伝わってきます。

「ああいうふうになっちゃだめだ」と十歳のころに言われた指をさされて

子供の時に「なってはいけない」と教えられた存在にに今なってしまった、「指」がさすものとしてかつて自分に教えた人の指と今の自分をさす指が重なるのが、時間を超えて悲しくなります。

これらのヤバさって、わかるところはあるんです。「オレ」は三十代後半の男性ということもありますし。こういう評文で自分語りをすると嫌われるらしいのですが、僕もよく会社の同僚から「お前は女子小学生の横を歩くな」と言われます。性犯罪者のように見えるそうです。もちろん冗談の文脈でしょうけれど、「そう見える」の「そう」って、もうどうしようもないんです。

そして、『世界で一番すばらしい俺』は、その「ヤバさ」に具体性は与えていないな、と思います。抽象的には察することができます。「品性がない」しかり、「ああいうふうに」しかり。ただ、ここって露悪的にやろうとすればもっと具体的に短歌にしていける部分かなあとは思っていて、そこは意識的にセーブしているところかなあと。これは物足りないと思っているわけではなく、逆に上述してきた分離的な捉えかたとマッチしたものだなと思っています。何より、ある程度抽象性を担保しているからこそ、読者として自分事のように読むこともできます。

四十になろうというのに若者に向けた批判を身構えて聞く

「オレ」が抱える問題意識として、大人になりきれないままこんな年になってしまったこと、があると思います。このことはかなり多くの人に当てはまると思うのです。これまた自分語りをすると、僕はいま三十歳です。そんなもんだろうと思っていただいた方はありがたいですが、僕が子供のころに思っていた三十歳というのは、もっと深く物事を考えられて、もっと洗練された文章を書ける人でした。また僕からすれば、「オレ」はともかく工藤吉生さんは、年齢によく合った視点で文章を紡いでいる方です。でも工藤さん自身からしたらそうじゃないんだと思います。この問題意識って、たぶん自分が自分である限り、多かれ少なかれ逃げられないものなんです。

坂道でアイス食べてもいいかねえだめかねえもう三十八歳

歌集中で一番涙腺にきた歌です。この「いいかねえだめかねえ」は、「オレ」固有の人生、視点によらずとも、ほんとうに刺さってしまうものだと思います。工藤さんにどこまでの意図があるかは別として、「オレ」の生きざまを示すだけの歌集ではなくて、読み手の心の「大人になりきれてなさ」を共感させる部分の大きい歌集だな、とは思いました。


書きたいことはとりあえず書けたので、引用していない歌の中から特に好きだった三首を引いて結びとします。

うしろまえ逆に着ていたTシャツがしばし生きづらかった原因

うっかりと入っていくと晩飯がふるまわれそうな灯りの家だ

力こめ丸めた紙が(ゆるせないことだが)元に戻ろうとした



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