歌集を読む/𠮷田恭大『光と私語』

2021/05/03

歌集

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𠮷田恭大『光と私語』(いぬのせなか座)を前に読んでいましたので、その感想を書きます。

歌集を読み始めたのはだいたい四年くらい前からですが、読んだっきり感想をまとめられていないものも、これを機会にすこしずつ進めていきたいものです。

書籍情報はこちら(いぬのせなか座HP)。2019年3月の発行ですね。


僕が短歌実作にのめりこむきっかけになった連作は、𠮷田さんの「ともすれば什器になって」だった、という思い出の存在だけ、ここに覚え書いておきます。そのころ僕は短歌にまるで興味もなく、しかし「いろは歌」作りに熱中していて、たまたまそれが『短歌研究』誌に特集されたことがあり、買ったらそこに掲載されていたのでした。人生、なにがあるかわからないものです。


さて『光と私語』ですが、とても解像度の低い歌集です。栞文の(毎回解説や栞文から引用するの、自分の考えじゃないみたいで気が引けるのですが、そこに書いてある以上は自分の言葉と言い張ることもできませんので)堂園昌彦さんも「解像度を下げる」歌のつくりに言及されているように、かなり粗い描写がなされています。それは「わからないようにしている」ようなものではなく、「一般化しにいっている」感じです。以下、引用はすべて『光と私語』からです。

本屋から毎週少しずつ届く乗り物の模型の一部分

が、何を言っているのかはよくわかります。固有名詞で言えばデアゴスティーニ式のあれです。そこを一般化し、届く「模型」も「乗り物」と一般化しているので、具体的なイメージは何百通りも繰り広げられそうな歌です。しかし着眼点は細かい。この「一部分」は、あくまで「一部」なんですが、「本屋から毎週届く」のです。つまり最後まで集めるような売買契約的なものはあって、「模型全体」を意識しやすい状況なのです。全体を強く打ち出して観察される一部に宿る詩情があります。

知り合いの勝手に動く掃除機を持っていそうな暮らしをおもう

これもルンバ的なあれなんですが、字数を割いてまで一般化しています。ここで一般化する気持ちはわかりますが、一見適当なことを雑に言っているようです。しかし、「勝手に動く」という表現から、主体があまりそういう掃除機を信用していないことがうかがえます。それがある「暮らし」とは、その勝手さを受け入れている暮らし。そんな感じのする「知り合い」。ルンバ的な掃除機の解像度は落ちていますが、関係性はかえって浮き彫りになってきます。

燃えるのは火曜と木曜と土曜。火曜に捨てる土曜の残り

言わずもがな、ゴミなのです。ゴミくらいはゴミと言ってもいい気がしますが、それすらも書かないことで、この歌が「何を捨てるのか」に対して真に無頓着であることが示されています。逆に、「捨てること」が際立ち、「土曜から火曜の間だけちょっと長いこと」が際立つのです。

このようなレトリックを駆使した歌が歌集には多く、他の歌集とくらべても主体のことが見えてこない印象です。もちろんそこに人はいて、なにかを感じているのですが、個別具体的なものは捨象して、また写実的な描写を重ねることで、自分でも何を言っているのかわかりませんが、低解像度の高性能カメラが機能したような世界観があるのです。

夏にほぼ人の数だけ声帯があって冬、その倍の耳たぶ

一般化の文脈から派生して、人々に共通するものを拾い上げる(これもまた一般化ですね)意識のある歌も多いなと思いました。なんとなくですが声帯を意識しやすいのは蟬のイメージもあってか夏っぽくて、耳たぶは寒い冬に意識しやすく、そのことだけを言っていますが、「そういう共通項」で「みんなとつながっている感じ」を得られ、これは僕には快をもたらしています。

家々のアンテナ全て西を向きその中の何軒かのカレー

こちらも「その中のいくつか」という把握ですが、共通項の抽出の歌でしょう。これらはどれも、低解像度の把握の歌と親和性が高いものになっています。


以上で述べてきたことが、𠮷田さんの歌の魅力であることは間違いないと思うのですが、これってどこからくるんだろうということを考えます。僕ははじめに、共感性というキーワードが浮かびました。

たしかに、𠮷田さんの歌には共感性があるとは思います。そもそも一般化された歌が多いわけで、「その主体」に「自分」がなることができる。誰でもあてはまりそうなJ-POPの歌詞ではないですが、低解像度の敷居の低さで、すごく「そこ」に入っていくことが可能です。とはいえ「自分」は、「模型の一部」にしても「耳たぶ」にしても、そこまでしっかり把握することは、できないわけです。だから歌を読んでハッとする。

この、交換可能なシチュエーションかつ未体験の把握、という言語化しきれていないものこそが、魅力なのではないかと僕は考えています。こういう細かい把握の歌って、普通は「私はこう感じた」という感じで主体が前面に出てきます。だって見たのは主体だし、感じたのも主体なので。あるいは出てこないにしても、「当然そういうものだ」というように読まれてしまうとは思います。

しかし𠮷田さんの歌は、意図的な一般化で確実に主体を交換可能にしてしまっていて、だからこそ読み手は自分の歌であるかのようにその情景に入り込み、そこで本来の細かい把握が自分の心の中ではじける。僕が『光と私語』から覚えた感動の多くは、こういうメカニズムだったんじゃないかな、と振り返っています。

今後とも乗ることはないだろうけどしばらく視界にある飛行船

の、「あるある」とまでは言えないけれど「ありえるありえる」の感じ、

待ち人のいたるところに居るような東南口で待たせてしまう

の、確かに「待たせてしまう」なんだけどその「しまう」を含めて読み手が自分のものにできてしまい、そのときに読み手に再現される「東南口」の感じ、

京都から来た人のくれる八つ橋と京都へ行った人の八つ橋

の、その違いというよりむしろその「限りなく同じ感じ」に気づかせてくるところの感じ、それらはどれも主体の、ひいては𠮷田さんの感じ方なんでしょうけど、読み手として「そうかこういう感じ方をする人なんだな」と思うわけではなく、この歌の主体に交換されたうえで直に味わってしまうのです。

ただ、こういう感動は、ある程度短歌を読み慣れないと得にくいものかもしれません。僕は基本的に「書いてあることしか読まない」人のつもりですが、「書いてあることから思える書いてないことは思う」人でもあり、そういうアンテナに響いてくる感じがあるからです。もっとプリミティブに「書いてあることしか読まない」と、そもそも何を言ってるんだろう、で終わってしまう、のかも、しれません。ここはわかりません。ただ、ぼんやりとした感覚として、ちょっと歌人向けの歌集かなという気はしています。


ここまで書いたことを読み返すと、まるで『光と私語』の主体は抑制されきっているかのようにも感じられるので、このあたりでそれは違うということも触れておきましょう。もちろん前述の引用歌のレトリックには主体の抑制効果があるとは思いますが、そうではない歌だってあります。

たぶん前、あなたに言ったけど、という、何度か聞いたあなたの枕

語彙のあっせんは一般化されていることに変わりはありませんが、この「枕」を「何度か」聞いているという示し方は、やはり「主体とあなた」固有のものを思わせます。少なくとも、僕はこの歌の主体に交換されることはありませんでした。

ヨドバシの二階はいつも眩しくてめいめい首を振る扇風機

これも一般化に近いカメラワークですが、「ヨドバシの二階」はかなり限定的です。それも、そこに「いつも」行っている。このあたり、主体固有の感慨として提示されているものだと思います。

𠮷田さんの歌は、基本的に自身の生活の周辺が歌になっていて、その辺を移動しているときに歌が生まれることが多いのか、移動中の歌だったり、特定の地名を引き合いに出している歌も目立ちます。そういう意味では、『光と私語』は東京近郊に暮らす人の生活という特定的な環境を立ち上げてはいるのですが、でもやっぱり、あえて主体を抑制的にして解像度を落とし、読み手とダイレクトにコネクトしにいく側面は強いように思いました。また、主体を抑制的にしたとしても、そういうレトリックを繰り出しているのは作者なわけで、主体とは別の「作者の意図」は常にあるわけです。そしてその作者と主体がくっつきがちなのが、短歌の困ったところです。

ぱーじぇーろ、ぱーじぇーろって時として道行く皆様に囃されたい

恋人がすごくはためく服を着て海へ 海へと向かう 電車で

けっこうユーモアのある視点から語られる歌もあるのですが、それすなわち作者がしっかりいる、ということになります。なまじ主体が抑制されているぶん、作者のほうは「いるな」と思わせるものがあるのです。


歌、としての魅力について、書きたいことは以上になるのですが、この歌集が三部構成であることには触れておかなければなりません。また、冒頭のリンク先から飛べば分かりますが、歌集のデザインが非常に幾何的に独特なものとなっており、読みやすいのですが、無機質な印象を得るもので、それが歌集の抑制的な雰囲気を増大させていると感じました。

三部構成のうち、一部と三部はいわゆる普通の歌集に近い構成です(幾何的な配置の妙はありますが)。またここまで引用してきた歌はすべてそのどちらかに収録されています。そして第二部は、一首立ちした短歌のまとまりという構成を捨て、歌の配置の工夫や散文との組み合わせといった、ある意味で躍動感のある作品となっています。

この第二部が、なかなか手ごわいものだなとは思いました。

人知れず手筈が整われていて、燃やしたい袋を捨てにゆく

こういうふうに一首引けば、今までと同質の短歌だな、という鑑賞になるのですが、そう簡単にはいきません。はっきり言うと、第二部は短歌の歌集としては読みにくいものがあります。散文との組み合わせが、何が短歌で何が短歌じゃないんだという変な二分論を起こしてしまい、それらを一体的に鑑賞してこなかった自分のクセが読書を妨げたのでした。

とはいえ、何度か読んでいるうちに流れとして読んでいけるようになり、僕は、この第二部は主体(または作者)固有の話をしている部分なのではないだろうかと思いました。第一部と第三部は、上述のように主体を抑制して歌を一般化する試みがなされており、普通の歌集ではある種当たり前の「主体固有の話」が提示されていませんでした。一首立ちする歌であればそういうカメラワークになる以上、それらをつなぎ合わせて流れさせることで、『光と私語』の中で自分の話をする、をやり切ったのかもしれません。

第二部は基本的に奇抜な構成が目立ちますが、唯一「象亀の甲羅を磨く」という連作だけ、一首ずつのノーマルな構成となっており、これもけっこう「主体固有の話」を感じるものだったので、こう考えたというのもあります。

冷房の弱いところに冷房に弱い人々以外も乗せて

そこでも抑制的な表現での統一感はあるのですが、この構成に入れこむことによって、そこでは主体がこの歌のプライオリティシートに座れているように感じました。

「主体固有の話」から派生して、第二部に収録の「ト」という連作のことに触れ、構成の話は結びとします。「ト」は、ある人物の一日の動きを、できる限り物質的に淡々とト書きのように描く構成ですが、そこでは主体が二人称的に語られているようなのです。もちろん、主体はあくまで観測者で、同居している人を淡々と描いた、と解釈することは可能です。というかそっちが正しいのかもしれません。ただ僕は、『光と私語』から感じる、抑制された主体と存在を消すことはできない作者という二つの存在について考えさせられたので、まるで「ト」は作者が主体を二人称的に語っているかのように思えたのでした。それってすごく不気味なんですが、本質に迫っている気がしませんか。


いよいよ書きたいことも尽きてきましたが、最後に韻律の話だけします。𠮷田さんの歌は、引用歌からも垣間見えますが、読点がめちゃくちゃ多いです。それもあって、また抑制的な雰囲気もあって、歌の速さも落ち着いているなと思いました。

笑わなくてもあかるく、そして、地下鉄の新しい乗り入れの始まり

「そして」の前後にあえて読点が入りますが、ないとこの接続は急なものに感じるでしょう。速い歌ばっかり書いている僕は、この読点を入れないと思います。ただこのスピード感が、『光と私語』を強固なものにしているなあと感じます。

人間の七割は水 小さめのコップ、静かにあなたに渡す

一字あけと読点を意識的に使い分けている歌もありまして、もちろん意味の区切れということもあるんでしょうけれど、やっぱり速度調整の意味合いもあるんじゃないかなあと思った次第でした。


以上です。最後の最後に、引用歌以外に特に好きだった三首を引いて、終わります。

恋人の部屋の上にも部屋があり同じところにある台所

名詞から覚えた鳥が金網を挟んでむこう側で飛んでいる

踏切の向こうで待っている人の、大きなきっと、金管楽器


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