歌集を読む/橋爪志保『地上絵』

2021/05/23

歌集

t f B! P L

 橋爪志保『地上絵』(書肆侃侃房)を読んだので、その感想を書きます。

書籍情報はこちら(書肆侃侃房HP)。2021年4月の発行ですね。


橋爪さんとは活動をご一緒させていただく機会が多く、典型的な「知ってるひとの歌集」だなという気持ちが強いです。これは橋爪さんその人のことをよく知っているというよりは、橋爪さんの歌をよく知っているという意味です。もともと「京大短歌」「羽と根」は追いかけていましたし、その他の掲載情報も直接うかがうこともありましたので。

それでも歌集というまとまった形で読むのは初めてのことで、あらためて感じたことを整理していこうと思います。


歌集全体を通しておおまかに最も感じたことは、パワフルだな、という印象でした。ファイティングポーズを取っているわけではないけれど、闘いにいっているな、って感じ。何に対してかといえば、生きることに対して。

ただ、この歌集が「生きていくぞ」という歌集なのかというと、部分的にはそうなんだろうなあくらいの印象でして、もっと力そのもののほうに振れている感じがしました。なんだろう、「生」と「生きること」はちょっと違ってて、そういう意味での「生きること」をやっている歌集なんじゃないだろうか、みたいなことを思ったので、そういうことを書いていこうと思います。

『地上絵』は二部構成からなる歌集ですが、僕には明確な一部とニ部の差を読み取ることはできませんでした。編年体の傾向があるわけでもない感じですし、既発表の連作を適宜あらためながら収録している構成だと思います。


最初にパワフル、と書きましたが、主体の身体性の面から触れてみます。橋爪さんの歌のほとんどは橋爪さんの主体がいるので、その身体性を詩情に落とし込んだ歌も多いです。以下、引用はすべて『地上絵』からです。

からだじゅう着地点だよ転んでもスケート靴の刃に射すひかり

スケート場で転ぶと本来接地しない体の部分が氷と接地するわけですが、その痛さや悲しさをポジティブな方向に持ってきているいい歌だと思いますし、体という器を広く捉えた歌だなとも思います。短歌で身体を思うとき、細かい方向に意識を向けるものも多いですが、橋爪さんのアンテナは拡張的な方向のほうに特徴があるなと感じます。把握の手を広げていく感じです。

果物がぼくらの喉をかゆくして落ちつくまでを聴き逃さない

これも口→喉→胃という広い身体の動きを捉えつつ、「ぼくら」と自分以外にも手を広げに来ています。「かゆくして」という表現が異質ですが、読み手である僕にもその「かゆさ」あるでしょ、という提示の仕方だと受け取れて、確かにな、のラインには乗れる歌だと思います。この辺を「聴き逃さない」というのもパワフルです。音がしないんですから。

割るために花瓶はあるという嘘をいつまで信じる手足だろうか

ダイレクトにパワフルな歌、つまりは暴力性を孕んだ歌も多いと思います。この「手足」が間違いなく主体のものであるという保証はありませんが、歌集を読めばかなり主体のものっぽく。この「手足」を持っているひとは花瓶を割るんです。これは頭ではない、理性の効いていない場所としての修辞だと思います。「足」まで含まれているのが動物的です。

引いてきた歌のような「力」を感じる歌は、歌集に横断的にちりばめられていると思いますので、心や意思の強さ以前の話として、肉体的な強さ(強さというか、力をおもうこと、ですかね)に対する意識が強い、そのへんに心を動かされながら圧されるところはありました。


また歌集では「きみ」との歌の多さも目を惹きますが、人間関係の歌にも力を感じる点は共通かなと思います。力関係ではなくて、主体がもっている力のことです。

改札の前であなたと完全におんなじひとがほほえんでいる

の、(これいい歌ですね・・・)「完全に」のあたりの力の入り加減とか、

Tシャツを洗えばきみはよろこんで花火みたいに腕を通した

の、行動しているのは「きみ」側なんですがはじけるような感じとか。このへんの技巧というか拾ってくるエピソードの質感は、『地上絵』の解説を担当している宇都宮敦の影響があるなと思います。質感はそうでも、そこにこもっている力の強さは、雪舟えま的なものを感じます。この二人は橋爪さんがよく自分で言及されるので、逆算して名前を出したわけですが、でもほんとうにそうだなあと思います。

他の歌人の影響の話はそこまでするつもりがないので人間関係の歌に話を戻すとして、主体と「きみ」との間には、引用してきた「うまくいってる」感のある歌もあれば、そうでない歌もあります。これはけっこう交互にきます。

寝ぼけてるあたまをうまく利用してきみの好きだった歌をうたった

この、寝ぼけなければできない、を、わかってる、というのが絶妙なラインで、どこか自分に言い訳を立てている感じに心を動かされますが、歌の読みとして「きみ」とはうまくいってなさそうです。このうまくいく・いかないの波にあたっていると、「きみ」は必ずしも特定の一人ではなく、その時々によって主体がぶつかっていっている「きみ」であるように感じられてきます。このあたりも、主体の果敢さを覚えたところです。

僕は愛の犬なんだろう ぴかぴかの十円玉だけ残して払う

短歌的に共感をがっつり呼ぶ下句の行為と重ねての主体の感慨が、歌集全体の雰囲気を指しているような感覚はありました。「愛の犬」的です。愛をもって、駆け寄っていく感じ。その運動的な力にひしめいている歌集。

みんな好き そのうち特にきみの顔がすきで遠くの国へゆきたい

そういう対人間への主体の開き方と、前述した拡大的な把握のある身体性の感じはすごくマッチしていて、ぐっと掴まれるものが多いなと感じています。


ぐっと掴まれるでいうと、『地上絵』にはこういう特徴的な歌も多くあります。

淀川は広いな鴨川とは全然ちがうなほとんど琵琶湖じゃないか

解説で宇都宮敦が「大胆な間違いで鷲掴みされるほんとうのこと」と言及しているものになるとは思うのですが、これです。こういう、ぐわっと掴んでくる歌が多くて、嬉しいです。

ビルをつくるひとはやる気があるんだなあ 悲しいときはジャンプしてみる

僕にとってはこれもそういう歌なんですが、この「掴み」ってなんなんだろうというのをずっと考えてました。結果、とりあえずは、「第一印象を大事にすること」なのかな、と思っています。

上の二首はどちらもつっこめてしまうわけです。淀川は琵琶湖に及ばないですし、ビルをつくるひとのやる気なんてわかりません。こういうツッコミどころを用意する歌はある種のあざとさがあるわけですが、しかしながら、「こういう第一印象」は、あるわけです。

淀川の、鴨川に比べて太い流れに、「今見えている淀川の枠」だけを切り取ったら「琵琶湖」に匹敵できる、は、あります。ビルを作るってことはいろんな人のいろんな動きがあって完成するもので、その総体としての「ビルをつくるにあたっての人の気持ち」は、甚大なものです。そして事実がどうとかいうより前に、そういうことを覚えるってことは、あるのです。

思えば第一印象が間違っていることは多いです。誰でもそうだと思います。けれども、その間違った第一印象を感じた理由というのがどこかにあるのです。橋爪さんは、そこを無視せずに捉えているんだろうなというのは思いました。どこかしら、真実へ向かおうとしてしまうと、こういう間違った印象は捨てられてしまいます。観察眼の短歌は、第一印象の先に見えてきたものを追います。それもいいんですが、もっと根源的なところ、拾えるよな、ということに気づかされました。

ラメ付きのスーパーボールに住んでいるひとかよきみは地球ではなく

「地球ではなく」、当たり前すぎるんですが、これも感情の中にあったということを捨てないのも、そうなのかもしれません。こういう掴み方は、今まで述べてきた歌集中の「パワフル」とは位相がズレますが、また別の観点からのパワフルなんじゃないかなと思います。


そろそろ冒頭で言及した「生きていくこと」に対するこの歌集の姿勢について書こうと思います。ここまでこの歌集が持っている「力」について追ってきましたが、これはまあ「生命力」と呼んでも間違ってはいないと思います。つまり、生に相対して持っている力だと思います。実際言及していませんでしたが、「戦う」ことをモチーフにした歌も目につきました。

ではこの歌集が、生きていくことが素晴らしいという肯定的な感情に満ちているものかと言われれば、全然そんなことはありません。生の歌と同じくらい、死を思う歌もあります。

死がふたりを分かつのは変 フリスビーを目で追うのちにつかみそこなう

この「変」は上述の第一印象の保存的なレトリックに感じますが、「ふたり」の「死」を思う歌です。「変」は、フリスビーの「目で感じる動き」と「実際の動き」のズレに象徴され、説得力を増しています。歌集中、死にたさの歌もありますし誰かが死んだ歌もありますが、より特徴的なのは、こういうふうに概念としての「死」が漠然とある感じでした。

宇宙葬されて待ってる 肉体がきえたら抱っこはできないけれど

「宇宙葬」という突飛さは、逆に具体的な「死」を遠ざける雰囲気があると思います。事実、「主体自身が具体的にこう死ぬ」というイメージの歌は歌集になく、「死」はかなり抽象的です。しかし絶対に逃げられないものとして存在しますし、「死」に対して向かっていく「時間の流れ」が感じられる歌は多いです。

いちめんの雪 死んだひとにあいたい いきてるひとにはいきててほしい

この歌から感じられる、他人の死を忌避する気持ちや「生きていてほしい」という気持ちも、「いちめんの雪」というまっさらなイメージに圧されて、概念として抗えないくらい立ちはだかる「生」「死」という現象として把握しているかのようです。

例えば床を半分に分けて、片方を黒く塗りつぶします。そちらを「死」と呼び、もう片方を「生」と呼ぶ。「死ぬ」とは、床から床へ移動すること。それくらいの把握なんじゃないか。僕は『地上絵』からそういうものを感じました。だから「生きる」ことは「生」とめちゃくちゃくっついているというより、もっと「存在している」に近い感じ。上手く説明できませんが、こんなイメージを僕は受け取っています。

生死を思うと、どうしても希望や絶望という概念がついてきます(歌集中にも、「わたしの絶望」という連作があります)。考え方によっては、「生」に近づくことが希望、「死」に近づくことが絶望、と捉えることは可能でしょう。むしろそれが普通かもしれません。が、『地上絵』の希望・絶望は、生死にダイレクトに紐づいているというよりも、存在していること、生きていることそのものに紐づいているような気がするのです。だから、「生きている」ことそのものが否定されることがなく、そこに「力」があるのです。この「否定されることがない」のは、肯定しているわけでもなく、その現象から逃げられない、寄りのものだとは考えています。

下向けば涙が上向けば咳がでてくるこの調子で生きちゃおう

すごく前向きな歌として読めますが、この「生きちゃおう」は「死なない」とかではなくほんとうに「存在しちゃおう」な感じがしますし、

生きてまでやりたいことがあまりないことがうれしいのを信じてよ

から「死にたい」があるわけでもない感じがする、この「生きる」は「生死」の上に立った現象であって、その不可避性を受け入れて、日々を戦う、ような意思を、思うのです。

そして、この状況というものは、誰にも普遍的なものなんじゃないのかな、と思うわけです。


さて、最後に歌集のタイトルにもなっている「地上絵」の歌を鑑賞したいと思います。

I am a 大丈夫 ゆえ You are a 大丈夫 too 地上絵あげる

このキャッチーさに掴まれるのは「大丈夫」を「英文法上の名詞」にぶち込んだところにあると思いますし、「地上絵」なる「あげられないもの」を「あげる」って言ってのけるところにもあると思いますが、これ一首で読んだとき、僕はすごく肯定の歌だなと感じました。「大丈夫」なわけですから。

歌集で読んでも、それが大きく変わることはありませんでした。しかし比較的序盤で出てくるこの歌を鑑賞後、歌集を読み終え、これがタイトルにもなっていることを考えると、この歌は「I」と「You」を同じ土俵に「大丈夫」というくくりで置いたことも非常に重要なんじゃないのかなと感じるようになりました。すなわち、生きることから逃れられない(死んだとしても生きたことがなかったことにならない、的な感じです)という土俵としての「大丈夫」。

この歌が単体でここまでの意味を持っているかどうかは書いている僕ですら疑義がありますが、そういうものも背負える歌だな、とあらためて思いました。同時に、そう感じるくらいには、この主体の、橋爪さんの「力」を、「地上絵」のように大きなものとして手渡されたような気持ちになったのでした。


一通り、書きたいことが書けたので、引用しなかった歌から特に好きだった三首を引いて結びとします。

振る腕が痛めばときどきひだりみぎ変えながら聴くライブだったね

かんたんなてんらんかいにゆきたいなみずうみに触るだけのてんらんかい

台風の朝にこどもを見失うわたしのこどもかもしれないね

QooQ