歌集を読む/門脇篤史『微風域』

2021/11/22

歌集

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門脇篤史『微風域』(現代短歌社)を前に読んでいましたので、その感想を書きます。

書籍情報はこちら。2019年8月の発行ですね。


門脇さんには関西時代に大変お世話になり、ご恩がご恩のまま関西を去ってしまったなという気持ちがあるのですが、それはさておいて、門脇さんが現代短歌社賞を受賞したときにすごくうれしかったことを思い出します。営業をしていてお昼ごはんをどこにしようか考えている中、ベタに「やよい軒」にしようとなり、入りかけたときにそのニュースを見て、とりあえず「やよい軒」で一番高い定食を買ってしまったことがあり、そのときの半券の写真が今も自分のApple Musicのプレイリストに使われていることを思いました。この話はこれでおしまいです。

ともあれ、『微風域』は、僕が著者をよく知っているタイプの歌集です、ということは申し添えておきます。それが読みに偏見をもたらさないよう書いているつもりですが、影響は免れられないからです。


さて、門脇さんの短歌は、端的に言えば端正です。門脇さんの短歌が、というよりも、ある種の短歌が得意とする情景の切り出し、視点の確保、そういったものをどの歌も成功させている印象です。現代短歌社賞の選考時に、選考委員の瀬戸さんが、〇を付けなかった歌が300首中2首しかなかった、みたいな言及をされていた記憶がありますが、まずはその「〇」の短歌が丁寧に並べられている様を鑑賞させられます。特に、観察の中で微差を拾う手腕にほれぼれします。以下、引用はすべて『微風域』からです。

ぼうぜんと電車の外を眺むればあんなところにある室外機

「あんなところ」がぼかされているとはいえ、電車の中から「ぼうぜんと」やる視線の先ということで、高さを思います。家の二階の壁、みたいな。そういう室外機を見かけることって誰にでもありますし、そのときそれを「あっ」と思う瞬間もあるはずなのです。それを拾ってくる観察力。この室外機は孤独な存在に見えてきますが、「ぼうぜんと」という心情の入りが、その孤独感を主体にそのまま投影しているようです。普段、思ってもそのまま見落とす微差が拾い上げられています。

原形をたもち続けて雑踏にマーブルチョコのひとつぶはあり

これも細かいところですが、このマーブルチョコは、先ほどの室外機と対照的に、どこか力強い存在です。踏みつぶされていないので。ただ、それを奇跡っぽく描いているかというとそうでもなく、また一般的な感覚として「意外とそういうのって人は踏まないよな」という感慨もあるものですから、あくまでフラットな現実を、しかし確かな現実を拾っている歌だなと感じます。

会議室を元の形に戻しをり寸分たがはずとはいかねども

めちゃくちゃ細かい。ですが、はっとします。会議室の机の配置を元に戻すというのはあるあるですが、その普段いう「元に戻す」というのが、「寸分たがはず」である必要はないということは、皆わかっているのです。しかしどこか、「寸分たがはず」やらなきゃな、という謎の感じが、古い会社なんかだとあると思います(僕の勤め先はわりとあります)。ミリ単位はありえないですが、センチ単位では最後に調整をかけるとか。そういうレベルはある意識が、浮き彫りになってくる歌です。

こういった具象の微差を拾う歌というのは、「こんなの見つけた」で終わるともったいないところがありますが、門脇さんの歌は、そういう微差に主体の感情が乗っていて、どこか「こういう人だから見つけられるこれ」という必然めいたものを思い、不自然に感じません。また、具象だけではなく、心情の微差を拾っている歌も多く、とにかく生活周辺を丁寧に深彫りされているなという思いが強くなります。

置き傘をときどき使ふ傘であることを忘れてしまはぬやうに

これは具象として細かいわけではありませんが、ある傘をして「置き傘」と「時々使う置き傘」に分けた上で、後者であることを大事にする、という心情の微差があります。傘、とくに雨傘を使うときというのは、あまり自分でコントロールできるものではありません。雨が降ったら使う、くらいなのです。そうはいっても普段使いの傘はあり、ここに置いてあるのは普段は置き傘なんだけど、という心情は、細かいですが、その置き傘を使ったときの時間と空間を提示してくるものです。

アヲハタのジャムの小瓶に詰めてゆく自家製ジャムのたしかなる熱

自家製でジャムをつくるとなったとき、使われる瓶は市販のジャムの瓶であることが多いのではないでしょうか。なので、うたわれていることが変わったことではないはずですが、同じ瓶の中に違う作り手のジャムが入り、自分側のジャムの熱を感じるというのはそのまま心情の熱に広がっていくようです。

誰の死を求むるわけにあらざれど買ひなほしたる黒きネクタイ

この歌は発見の歌なところもあるとは思うのですが、弔事用のネクタイを買いなおすことだってあるわけです。むしろ形式的なところをしっかりしたいわけですから。ただ、この「買いなおし」が、特定の弔事のためではなく、備え的なものであるからこその上句の心情なのでしょう。これは「もちろん誰の死を求めるわけではない」と否定できる感情の芽ですが、ほんとうにゼロですか? という微差的な部分まで踏み込んでいける歌だと思います。

このように、普通なら拾わない、拾えないようなところを浮き彫りにしていく手腕が『微風域』の根幹にあり、読んでいて勉強になるなと思う部分も多いですが、歌が文語旧かなでつづられるというのも大きな特徴です。これについてなにか深読みする気はないのですが、門脇さんとお話したときに、文語旧かなが持つ「異化」の効果は意識しているということをうかがったことがありますので、著者の発言を逆引きする形になりますが、このことにも触れたいと思います。

墓はさうただの石だが石はみな瀬戸内海を横目に見をり

文語旧かなが視覚的な異化作用を持っていることは、確かだと思います。そもそも短歌は文語旧かなでするものだった経緯からすれば、異化ために選択される書体ではないかもしれませんが、やっぱり「さう」などと書いてあれば、どこかここではない語りの感じを思わざるを得ないのです。

なお、この歌は「墓」をあえて「石」だと言った後で、墓を指したまま「石」と表現するレトリックが使われていますが、これは上述してきた微差を拾っていくものとは逆の、おおざっぱに描写することでその本質を引き出してくるものだと思います。『微風域』が細かい部分ばかり見つめて取り上げている歌集ではないということは書いておきたいです。むしろ、技のデパートみたいな歌集かと・・・

夕闇にジャングルジムはいくつもの立方体を容れて立ちをり

こういった、どの書体を選択してもジャングルジムが異化される歌にしても、文語旧かなの効果はあるのだろうと思います。ジャングルジムの「中身」を思いますよね。「夕闇」という時間帯がまたそういった想起を強くさせるものだと思います。

引いてきた歌は、比較的ほんとうに異化をしにいくものでしたが、これまでに引用してきた日常の微差の拾い上げの歌たちも、文語旧かなで書かれることによって、なんとなく「異化モード」で書かれた歌のように感じてきます。これは僕の中ではいい方向に響いていて、というのも口語のままだとどうしても「私は生活の中でここまで拾えます、ドヤッ!」という感じが出てしまう(すごく自分にブーメランなことを書いています)ところを、文語旧かなでは「短歌という仕事なのでここを拾います」という感じのプロフェッショナルな線引きをもってそれらを消せているのではと感じるのです。僕のないものねだりだとは思いますけれど。

これは門脇さんの話というわけではなくて、本来文語旧かなが当然であった短歌が、若い世代の間では少数派になっている今、「あえて文語旧かなでやる」という要素を無視するのはよくないのかもな、という気はしています。短歌の文語旧かなって、正確なものというよりは短歌の文化の中で独特に継承された「短歌語」みたいなところがあるように感じるのですが、そういったコロケーションが通用しない文語旧かなが今後ぽんぽん出てくればいいのになあとは感じます。そう感じるので、たまに自分も文語で書きます。


一首ごとの言及としては以上の通りで、今度は歌集全体を俯瞰しようと思います。全体としては、伝統的な歌集の構成(なんとなく、主体ひとりの人生の物語をバックに読めていける構造の意味で書きました)を取りつつ、全ての歌がハイレベルという均質な強い歌集だなという印象です。どちらかといえば、労働への疲れ、人間関係の疲れ、またそういったものから自分を救う手立てといった、ネガティブなものに寄り添う雰囲気があるなとは思います。

ハムからハムをめくり取るときひんやりと肉の離るる音ぞ聞ゆる

けっこう、料理や食べ物に関する歌が多く、主体の生活における食への関心は強いなと思ったのですが、それ自体が歌集の特色とまで言うつもりはありません。ただ、そのような歌も、ばかな言い方をすれば「これおいしー」みたいな感じではなく、生活の心情とそれに寄り添う食べ物、という成り立ちがベースになっています。引用歌も、当然肉としては離れているハムをめくる音のことを言っているわけですが、なんとなく、これから離れる肉の音のことまで考えてしまう余地があります。歌から立ち上がる空間が静かであるため、余計なことを考えてしまうような。それはどこか、殺しを思わせるものです。

殺意しか持たざる夜にすくひとるふるふる揺るる黒ごまプリン

物騒な上句とかわいい下句の取り合わせの歌ですが、やっぱりベースとしては「殺意しか持たざる夜」なわけで、主体の日常にある殺伐を感じます。事実、仕事詠の数も多い中で、クリエイティブではなさそうなお役所仕事・定型業務・雑務に追われる様は見えてくるところがある歌集です。

缶底にコーンはしづむ日常のどこかにひそむ希望のやうに

とはいえ、歌集が絶望感に溢れているものかというとそうでもなく、こういった希望を引くものも目に留まります。ここでいう「希望」は、実際には現れてくれないものなのかもしれませんが、「缶底のコーン」という、出てこないけれど「あるもの」になぞらえて提出されている以上、主体が希望を存在論ベースでは肯定していることがうかがえます。しかしそれがたくさん出てくるわけでもない。そういえば、歌集のタイトルは『微風域』でした。なににつけても「微風」なのだと思います。

この「微風」というのは冗談抜きですごいことだと思っていまして、この歌集に出てくる歌に「強風」がないことに驚きます。それは歌の良し悪しの話ではなく、歌のスケール、または感情のボルテージを指しているつもりです。

東京に打ちのめされた経験はたぶん何にもならんのだろう 

洗剤を詰め替へ容器に注ぎこむ指痛むまで絞り出しをり

一首目、「打ちのめされた経験」自体は強烈なものですが、それを踏まえた上で心は凪いでいます。冷めた主体、といえばそうなんでしょうけれど、それ以上に、なににつけても抑制的で、心を動かさないでおこうとする感じといいますか、そういうものを覚えました。自分の心を動かさないからこそ、動くものに気づくような。

二首目、下句から推測できる感情は、大きそうです。とはいえそれを自傷的に消化するような感じもすごく抑制的だと思いました。歯みがきの残りを絞り出すのに強い力を入れる、ならありふれていますが、洗剤の詰め替えでそこまでやるというのは別の感情が乗っている気もします。そうだとしても、それが大きな風になりはしないのです。

間違ひがあつてはならぬそれゆゑに六万枚を数へるひとひ

そういう「六万枚」もあるんでしょうけど、その「六万枚」の「一枚」が間違ったところでどうなるんだろう、までは明らかにされません。ただ、実際手を抜いてどうなるかどうかはさておき、「間違ってはいけないという要請」はあるんだろうなと思います。それに対して、機械的に応じる。それが歌になる。この主体が機械のようだというよりは、機械のように生きているときに気づくものがあるようです。そして、「機械のように生きること」はできる主体なんだな、というのは思います。

人類の進化の果てに我はゐて給湯温度を一度上げたり

どちらかといえばユーモラスな歌だと思いますが、そこも抑制的だなと思いました。給湯器って、よく考えたらすごいと言いますか、一度単位でお湯の温度を調節できる機械なわけです。それってたしかに技術の粋で、その「果て」で行うこんなに細かな行為、という感慨には、必要以上の気持ちを込めてはいないように思います。そしてそのほうが、歌として成功しているのです。

これらの主体像を、門脇さんとオーバーラップさせていないと言えばうそになります。少なくとも、『微風域』から立ち上がる主体像が、大きく門脇さん本人と矛盾はしていないなとは思います。その上で、主体だけに目を向けているつもりです。しかし、この価値観というものは、本来として持っていないと歌作に出てくることはないんじゃないかなあ、とは思うのです。

なにもなき日々をつなぎて生きてをり皿の上には皿を重ねて

他の歌では、殺意を覚えるようなことがあったり、人間関係におっくうになるようなことがあったりする中で、総体的なスタンスとしてこの歌が出てくるのだとすれば、それぞれの微風があるなかでの平凡さのようなものの意識の表れなのかなあと感じています。「皿」という具象が非常に効いていてすごく好きな歌ですし、僕自身もいろいろとやって生きているつもりでも、とどのつまりは同じ「皿」を重ねて生きているような気になってきます。

『微風域』からは、職場詠も、境涯詠も、妻との人間関係の歌も、なんとなく子供について考えていることもうかがえます。そのひとつひとつは、細かい部分を拾って歌にしているだけあって、些細なことでも痛烈に感じられたりはします。そのピンポイントでの強さと、トータルでみてみればとくに何が起こっているわけでもない感じに仕上がっているフラットさとが両立しているのが、歌集として特異なのではないだろうかと思います。山階さんの『風にあたる』の感想のときも似たようなことを書いた気がしますが、純粋にいい歌だけを集めるとこういう歌集ができるのかもしれません。

雲間から舞ひ散る付箋のいくつかがあなたの未来につきますやうに

この歌でいう「付箋」がこの歌集の歌のことを言っているわけではないとは思いますが、そういう風に読めるところもあって、たしかに歌って「付箋」レベルのものかもしれないんだけどなあ、と不思議な気持ちになりました。とりあえず、『微風域』に付箋はいっぱいついています。


概ね書きたいことは書けたので、引用していない歌から三首、好きだった歌を引いて結びとします。

蟹缶を自分のために開けてゐる海がこぼれぬやうにそおつと

いま妻は祈りのやうな体勢でヨガをしてをり自分のために

くたびれた三万円を換へに行く明かりのやうな三万円に

(なんだか、意図せざるところで明るめの歌が並びました。)



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