笹川諒『水の聖歌隊』(書肆侃侃房)を読んだので、その感想を書きます。
書籍情報はこちら(書肆侃侃房HP)。2021年2月の発行ですね。
笹川さんとは面識も交流もあるので、歌集の感想を書く前にこういうことに触れるのはよそうと思いますが、この第一歌集の出版をとても嬉しく思います。結社活動、同人活動をともに精力的に行われており、これからの短歌シーンを引っ張っていかれる方でしょう。感想ですが、身内びいきみたいなものが出てもいやなので、ほめてばっかりはよそうと先に書いておきますが、いい歌集だったなあと感じています。
第一印象としては、やっぱり「もの」が持つイメージをどんどんぶつけてくるレトリックの歌が非常に多い歌集です。歌集の半分を占めているといっても過言ではないかもしれません。そうでなかったとしても、そう感じるくらいには多いです。まずは、その連続に読んでいてクラクラしてくると思います。以下、全て引用は『水の聖歌隊』からです。
増やしてもよければ言葉そのもののような季節があとひとつ要る
「言葉そのもののような季節」ってなんだ? という読み手の気持ちが、「要る」という歌の気持ちで押し切られてしまうパワー。「季節」が増えないことは承知の上で、でも要る。どこに挿入するのかとか、そういう説明は一切ないままに、ただ「そうかも」と少しでも思った瞬間、この歌はお守りになってしまうのです。
サンドイッチに光をはさんで売っている少年、のような横顔だった
上句からすでにイメージの咀嚼が大変ですが、それが「横顔」に落ちます。大変です。それだけの「横顔」を思わなければいけません。でもなんとなく「こうかも」があると、ぐっと心を掴まれる歌になってくるのです。これら二首は「ような」と直接の喩えになっていますが、この単純かつパワーのあるレトリックの歌、歌集中にめちゃくちゃありました。
いっしんに光りつづけた月の語彙、ではなくビスケットをあげました
「ような」に頼らなくても、イメージの衝突から詩情をぶつけてくる歌も多いです。「月の語彙」がすでに衝突の発生したアイテムだと思いますが、そこから「ビスケット」に落ちていく。「ビスケット」をあげること自体は普通のことでも、それが「月の語彙」の代わりだというだけで、わからないながらも重さが生まれている感じです。
うつくしい捕手が夜明けに飲むという太陽のソーダ割がどこかに
ここまでくるとイメージが玉突き事故を起こしているようにも思えます。「夜明け」「太陽」の語彙はトーンが揃っている感があります(「うつくしい」もですね)が、それらは「捕手」に紐づいているのです。あの泥臭い野球のキャッチャー。とは限らないにしても、とにかくイメージがどんどんどんどん拡散していく感じがあります。
この歌集の監修・解説を担当した内山晶太さんも、解説中で「言葉と言葉を一首のなかで接着させつつ、そこから発生するイメージは凝固することなく反応し広がっていく」と指摘されていますが、まさに「イメージの反応」がそこらじゅうで起こっている歌集だと言えるでしょう。
比較的定型からはみ出すことのない韻律で、丁寧に均質に歌が繰り出されていて、読みにくいということはないのですが、読み進めるにつれてどこかが爆発し続けているような気分でした。四章に章立てされ、そこからさらに細かく項目立てられた歌集なのですが、章ごとに明確な差異があるようには感じず、一冊を通して統一感のある歌集だと受け取っています。
さて、これらのイメージの衝突のレトリックの駆使はいったいどこで起こっているんだろう、ということを考えます。現実で起こっている感じは、ないです(現実を観測した上で、写実の延長としてイメージの衝突による描写をするような歌が少ないということも含意しています)。となるとやっぱり主体の内面で起こっているんだろうと思います。事実、この歌集は「主体の心」が拡張されて描写される歌にも溢れています。
こころを面会謝絶の馬が駆け抜けてたちまち暮れてゆく冬の街
最終的には「冬の街」という実景に落ちていくにせよ、「こころ」の中に「面会謝絶の馬」なるイメージの衝突した存在が顕現していますし、
運命論を信じはじめてから胸の奥にやたらといい椅子がある
胸中、つまり内面に「椅子」が顕現しますし、
近付きつつ遠ざかるひとの指先をこころの中でチェンバロに置く
に至っては、上句で示された「ひとの指先」を、内面に顕現させた「チェンバロ」に置いています。この「置く」という、心を大きな世界にして、その中を箱庭的に把握する感じも、歌集からは大いに読み取れて、
感情を静かな島へ置けば降る小雨の中で 踊りませんか
この感じも内面に「島」を作ったうえで、そこに「感情」を置き、それは内面世界とはいえ非常に拡張されているので「踊りませんか」につながっていく。
短歌において「心の中になにかを作る」というのは、ちょっと反則なところもあって、だってなんでもできてしまうのです。ただ、誰でも、なんでもできるんですが、その限界ってその人の想像力だよな、ということを思うと、『水の聖歌隊』がやっているその「スケール」は、異常にでかいのだと感じます。反則なんだけど、そこまでの反則は僕にはできない、そういう脱帽感が一番近いのかなあ、とは思っています。
内面で創造するという行為に近いものとしては「夢の話をする」もあるとは思うんですが、それもまたこの歌集の得意とするところです。
現実でも夢でも会った日の夢の、鏡の中のサッカーボール
砂糖菓子ひとつにしても夢ならばこころに添った形なのだろう
サッカーボールの歌は初読時「やられた!」という感じがものすごく、きっとこれは、ユングのいうところの集合的無意識ではないですが、「サッカーボール」を、「僕の夢にもあるもの」として受け取ってしまったのです。自分の内面を強烈なイメージで具体化していくことで、それを読み手の心の中にもあるものとしていく、というかそういうふうに思わせていく、そんなパワーのある歌だと思います。
これは別にマウントを取りたいわけではないのですが、笹川さんの歌にそういう側面があること自体は歌集の刊行前から認識していました。だからこそ、一首一首がこうなのに、集まるとどうなるんだ? とハラハラしていたんですが、そこはすごく「読みやすいほうにまとまった」な、と感じます。これはいい意味でも悪い意味でも言えてしまうことではありますが。読みやすくてよかった、がある一方で、殺人的な破壊力はなかった、でもあるということです。
内山さんの解説でも、「笹川さんの作品世界はナイーヴな主体像を伴って、だいたいこんなふうに揺れている」と書かれており、この言い回しに内山さんの真意がどこまであるのかはわかりませんが、「だいたいこんなふうに」と書けてしまったこと、は、その「いい意味でも悪い意味でも」を言い表しているんじゃなかろうか、と僕には読めました。
これはおそらく、笹川さんが歌の中で使用しているイメージが、枝葉のアイテムというより根源的なものに寄っているからだと思います。それは色彩感覚だったり、音だったり、光だったり、季節だったり、もちろん個別具体的な細かいアイテムもあるんですが、やはり根源的なイメージでねじ伏せにかかってくる。そうすると、それらはある程度類型的に頻出してくるので、歌集として読めばまとまる。ということかもしれないなと感じました。
上で解説を引用した際、「ナイーヴな主体像」という表現がありましたが、こちらは僕もそう思います。これはちゃんと書いておきたくて、というのも上述してきたような短歌は、ともすれば主体像の不在が目立つようだからです。『水の聖歌隊』は、そういう歌が多いことは確かですが、歌集中に主体もいることは間違いありません。
くまモンのポーチを買った 人が人を産むことがとてもこわいと思う
ここでこの「こわい」があるのはナイーヴでしょう。ただ、「ポーチ」という「中からものを出すもの」が、「キャラクター」であることからこう感じるのはわかります。
また、主体像がナイーヴなのに加え、けっこう「あなた」「きみ」といった二人称もそれに連関して出てきます。
罫線が震えはじめて目を閉じる どこかで冴えるきみの衒学
ここでの二人称の相手との関係性は明確に書かれませんが、主体よりはしっかりしていると主体は感じていそうな存在としてたびたび現れてきます。
『水の聖歌隊』に出てくる主体像、そしてその二人称の相手像は、どこか「セカイ系」を思わせるものがあるなと感じています。これは、この歌集が「セカイ系」の歌集であると言いたいわけではありません。このことは、ちゃんと言語化しておきたいので、しっかりめに書こうと思います。
そもそも「セカイ系」という言葉に明確な定義があるわけではないですが、一般的には「ぼく(ときみ)」レベルの自己とその周辺が、その社会構造などの中間的な要素をすっとばして、「世界そのもの(の危機)」に直結するような物語構造、くらいを言われることが多いように思いますし、僕もそう理解しています。よく引き合いに出される物語としては、『新世紀エヴァンゲリオン』『イリヤの空、UFOの夏』『最終兵器彼女』などがありますが、
最終兵器彼女にされてしまうかもしれないよ誰も見ない夜桜
この歌からそのことを思い浮かべた、は、あります。なんというか、2021年に「最終兵器彼女」がどこまで通じるんだろうというのもあって、とはいえある程度の年代層以上の人にはよく響く言葉でもあるわけで、その上でこれを歌集に入れよう、が、笹川さんの中であったことは、否定できない要素なんだろうな、とは。
とはいえ『水の聖歌隊』に世界の危機が描かれているとは思いません。だからこそ「セカイ系」の歌集ではないと申し上げましたが、しかしながら、この歌集には非常に強固な「世界」が、主体の内面という形で構築されています。そこに、今まで述べてきたようなイメージがちりばめられているのです。で、そういう「内面世界」に対して、この歌集の主体と「あなた」は、かなり直結しているように思うのです。
暗がりで出会った僕らなのだからきみのいない世界はきっとない
夜ですが それを夜とは知らないで世界がずっとあなたに似てる
いくら内面世界に「きみとぼく」が直結していようとそれはただの心象風景でしかないのが普通なんですが、笹川さんの歌はその内面世界が「世界」すぎる傾向があります。これはレトリックというよりも笹川さん本人の詠いかたなのではないかと推測しますが、いわばこの「逆向きのセカイ系」が成り立っている詩空間という抒情は、やっぱりゼロ年代のサブカルチャーの雰囲気にルーツがあるんじゃないか、と思うのです。
それをふまえて歌集の表題歌ともなっている歌を鑑賞してみましょう。
優しさは傷つきやすさでもあると気付いて、ずっと水の聖歌隊
水のイメージは歌集中でも繰り返されており、透明感あふれる表現に寄与しているものですが、やはりこの主体の世界には「ずっと」「聖歌隊」がいるのです。それは、外の世界で傷ついてしまう主体が持っている内面世界を、聖域化しているような。自身のよりどころとしての意味合いが非常に強いように感じられるのです。
そして、そこで繰り広げられるイメージは読み手の心の中にも創出されるパワーがあると思うことは前述のとおりですが、こういう「聖域」を、読み手としての僕も作れるわけです。そういう手の差し伸べ方をされている気分になり、ここに収められた歌たちに心を揺さぶられているんじゃないかと感じました。
歯を磨くたびにあなたを発つ夜汽車その一両を思うのでした
歌集中最後の歌ですが、理屈で読むことは可能です。歯を磨く時に出る音は、どこか汽車のシュッシュッという音を連想します。そのたびに汽車が出ていく。一回磨くときに出る音で、一両。そういうイメージで読むことはわりと理屈寄りに感じますが、その「夜汽車」があるのは主体の内面世界(だけ)ではありません。「あなた」のほうに創りにいった「夜汽車」なのです。そこまで教えてくれれば、僕でも、創れるんです。
『水の聖歌隊』が内向的な歌集であることは確かだと思いますが、僕はその「内向き」の部分を聖域化して、そのメソッドを投げかけてくるような歌集だなと感じました。それは現実逃避に使えてしまうのかもしれませんけれど、この表現力に眠っているパワーが、それだけのものとはしていないように感じました。そのことを、書いておきたくて、書きました。
書きたいことを書いたので、これまで引用してない歌から好きだった歌を三首に絞って引用し、結びとします。
静かだと割とよく言われるけれどどうだろう野ざらしのピアノよ
天国に自転車はあると言い張っていたらわずかに夜のサイレン
公園を逆さにしたら深くまで一番刺さるあの木がいいな
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