歌集を読む/谷川由里子『サワーマッシュ』

2021/04/10

歌集

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谷川由里子『サワーマッシュ』(左右社)を読んだので、その感想を書きます。

書籍情報はこちら(左右社HP)。2021年3月の発行ですね。

谷川さんといえば、ガルマン歌会の運営として、特に歌会のあり方という観点において、現在の若手歌人(若手に限らず、でしょうけど)に大きな影響を与えた方だと思っています。僕も一度だけガルマン歌会に参加させていただいたことがありますが、それが200回記念回だったということも含めて、本当に思い出深いものがあります。この第一歌集を手に取ることができて、とても嬉しかったです。どこかしら、歌集を出すつもりがないのかもという気もしていましたので……ともあれ、感想に移りましょう。


『サワーマッシュ』は、歌集としては珍しい部類に入る、章立てのない歌集です。150ページ超、300首、淡々と短歌が並んでいます。淡々というのは並び方だけの話で、一首一首に含まれる主体の情感には並々ならぬものがありますけれど。

章立てがないということで、どこから読んでもいい、んでしょうけれど、やはり通読すればゆるく進行する時間が、気持ちの変遷が、見えてきます。特に主体のムード的な比重にはゆるやかな波があるように感じられるので、個人的には一度は通読するべきだろうと感じます。

で、やっぱり、すごく「主体の歌集」だなって印象を受けました。主体が、主体とその周辺の話をしている。それが章立てなくひたすら続く。構成としては単調とも言えることを貫けるのは、一首のよさと言ってしまえばそれまでですが、主体の奔放で、明るくて、爽やかな印象をふりまくキャラクター性も大きく寄与しているように感じます。

ユニホームを着るのが好きだ似合わないユニホームならなおさらいいな

はじめだけお断りしますが、引用はすべて『サワーマッシュ』からです。谷川さんの歌の主体は、「自分自身」とか「自分の思う好き」とか、そういうアイデンティティ的な部分を周囲に流されず、まっすぐ伝える魅力があると感じます。引用歌が「似合わないユニホーム」を「なおさらいい」と言い直しているのは、それが「ユニホームを着るのが好きな気持ち」を端的に表現できるからでしょう。似合うユニホームなら、「似合う」ことが「好き」を構成してしまう、そこじゃないですよ、までしっかり言う。それで読者が読めるのは、ユニホームに対するブレない愛。

ショーをする象が笑っているようにみえたよくみても笑っていた

これも「象が笑う」まで言うのは決めつけめいていますが「自分がそう感じた」ことの念押しの範囲にとどまったうえで決めつけているようです。

千四百円のフィッシャーマンニットを着て千四百円の価値を上げたいな

ここから読めるのは「わたしはフィッシャーマンニットの価値を上げられる人間だ」という心なのですが、とはいえ「千四百円」なので、傲慢さを覚えるというよりは、できる範囲での自己肯定だったり、フィッシャーマンニットに対する思い入れのほうを読めて嫌味はありません。けれど、その限りにおいて主体はやっぱり自信があるように思います。

歌集の解説は大森静佳さんが担当されていますが、冒頭でこの歌集を「愛の疾走感に満ちた」ものだと書かれています。愛、も、疾走感、も、たしかにこの歌集からは強く受け取れることができて、その愛は今までの引用歌にあるような「周囲」だけではなく、特定の「きみ」に対しても向けられています。

全身にくる会いたいという気持ちです山ですという山の迫力

きみだけを守る空気があるでしょう お土産にしたくなる、空気だ

「クソデカ感情」という言葉が僕の周辺ではそこそこ流行っていて、そういう歌じゃあないと思いますが、「クソデカ」って本来はこういう感情のほうに当てはめたかったな、みたいなことを思ったり。「山の迫力」はそのまま主体の「全身」にかかるようですし、「きみ」はオンリーワンの空気をまとっていて、喩ではあるものの土地性すら感じられます。

おいしい、の手話を覚えた 噛みながら何度もできる みていてほしい

かなりグッとくる歌で、「食べながらしゃべれないときでも〈おいしい〉の手話でコミュニケーションとれるじゃん!」の感慨が発見的に伝わってくるのですが、「何度も」やるという相手とのコミュニケーションの濃密さ、ダメ押しのような「みていてほしい」、これらの感情は、主体は読者である僕に向けてはいないんでしょうけれど、読み手としてそういう愛を向けられたような気分になり、それが心をあたたかくさせてくれます。

こういった愛、肯定感、の強さは、主体の強さに裏打ちされていて、大森さんの解説では「歌集の中で「きみ」はしばしば泣き顔を見せるのに対して、「わたし」は泣かない。一滴の涙も見せず、愛情ぶかいひとみで世界を見つめている」と評されていましたが、確かにな、と思いました。歌集全体の傾向として「きみ」は泣く、「わたし」は泣かない、の対比はあるように感じます。

きみはまぬけ数世紀後のお花見の特等席で泣きだすなんて

泣く泣かないの対比以外の主体と「きみ」の関係性としては、毎日を一緒にしてはないのかなというものがありました。仮に一緒に住んでいたとしても、離れている時間は結構あるような。繰り返しになりますが章立てのない歌集の中で、一冊を通して主体と「きみ」の時間も流れていきますが、そこに変化のスポットライトはあてられていなくて、主体のベースをなす感慨であるような気はします。

何も話さないで碁盤に座るそのほうがよくきみといるようでいいのです

わりと序盤の歌ですが、「よくきみといない」からこそこういう歌い方になるわけですし、

この部屋を通過する風、隙間から入り込む風 離ればなれだ

わりと終盤の歌ですが、部屋をすぎゆく空気を細かく把握しながらそのふたつを比べたときに感じる「離ればなれ」は、やはり主体と「きみ」の文脈で読んでしまいます。

とはいえ「会えなくてつらい」というような感情が前面に押し出されているわけではなく、どちらかといえば「その中でも会う」し「会った中で楽しむ」にフォーカスがあるように感じました。だから全体を通しても楽しげですし、離れていても心を通わせるような歌も多いなと思います。

月比べしながら歩く一本道 そちらの月も見頃だろうね

電話しながら月の様子をお互い話しているんでしょうか。同じ月だけれど違うように見えるということを「月比べ」「そちらの月も見頃」といった表現で前提にして、その上で「一本道」の鮮やかさを突きつけてくれる歌だなと思います。歌集中「月」の歌はとても多く、その多くに「月を通して誰か・何か・いつかの自分などとつながる」ようなものがあったことは、ここに申し添えます。

こういう楽しげなコミュニケーションは、「きみ」との関係性にとどまらず、友達などにも適用されていて、それが歌集を通じての、帯文の曽我部恵一さんの言葉を借りるなら「ご機嫌な毎日」という雰囲気につながっているんだろうなあ、としみじみ思いました。


ここまで書いていると、『サワーマッシュ』はポジティブだし、肯定的だし、主体は強く、愛に満ちていて……なんて、浮き足立つような形容ばかり浮かんできて、それは事実だと思うんですけれども、じゃあこの主体はネガティブなものを見ていないのかな? という気持ちになってきます。実際、肯定的な短歌のレトリックの成功例として、ネガティブから一切目を背ける、というものはあると思いますし。

僕は、そこについては、この主体はけっこうがっつりネガティブも見ているぞ、という印象を受けました。

ビルの入り口に葉っぱが落ちている風がないからもう動かない

観察の歌とも言えそうですが、客観というよりは主観に寄っています。この歌は、葉っぱが風に乗って動くということは「葉っぱの能動」だという意識があります。例えばその辺の人が葉っぱを拾って動かしたとしても、それは「葉っぱが動いた」ことではないのです。しかし普通の感覚では、風が吹いて葉っぱが動こうが、それも「葉っぱが動いた」ではないんじゃないでしょうか。

歌集中、「月」とともに、いやそれ以上に「風」「空気」をモチーフにした歌は多用されていますが、その積み重ねからは「風」に生命力、なんらかの動力的なものを感じます。だからこの「風が切れた」イメージの歌に「もう動かない」とまで書いてしまっているこの感覚は、明確に「死」のほうを見ているように感じるのです。

五週間枯らさなかったもっともっと素敵なものを地獄に送る

「地獄」という言葉は、これまでの僕の感想だけ読めば似つかわしくないフレーズですが、歌集中何度か出てきます。この「地獄」は「ひどいところ」というよりはもっとナチュラルに「死んだら行くところ」というニュアンスで読み取れて、この主体は当然のように「死んだらみんな地獄に行く」と考えているのかもな、という気分になってきます。

いままで報われなくてよかったな コブシが群生している道もよかったな

その次の歌がこれですが、主体は自らの「報われなさ」を肯定しているとはいえしっかり抱えています。

あの世から呼べばこの世の公園のパネルの花もあの世なんだね

「あの世」「この世」の線引きを、かなり明確にしている視点です。呼んでからしっかり断絶させることで、主体がいかに「あの世」を見ているかが伝わってきます。

これらのネガティブなものへの視線というものが、主体の隠された一面を明らかにしている、なんてことを言えたらよく読めている人っぽいですが、別段そういうわけではなく、ふつうにそういったところも拾っていける歌集でした。ただそれは、僕が『サワーマッシュ』を読むまでは予想していなかった(つまり、ポジティブなほうは予想していた)ことでしたので、そこが予想外にいい収穫で、よかったです。

実際、ここで指摘したことは主体の二面性という印象はなくて、どちらかと言えば主体の基礎、という印象でした。見たくないもの、ネガティブなもの、死んだ後のこと、そういったものは主体にしっかり纏わりついていて、それを主体として引き受けたうえで強く言葉を紡いでいるからこそ、愛だったり奔放さだったりに結び付いているのではないでしょうか。これって言いかえれば「生きていることに対する、言葉にできないけど特別な感じ」なように思っていて、歌集を構成する歌から空気や風が動くたびに、そこを感じるのです。

読み手として、現実に地に足つけたうえで、歌のよさに気持ちよくなることができたし、なんか生きててよかったなと思えた。この歌集の感想を一文で書くとしたら、こうなると思います。


さて、今まで完全にスルーしていた韻律にも言及しておきます。谷川さんの歌はいわゆる57577の定型からははみ出たものが多く、破調とも言いがたいような韻律の歌が多いです。破調って、定型を意識するから破調になるじゃないですか。そういうところはあんまり考えてない感じの。

いままで報われなくてよかったな コブシが群生している道もよかったな

さっき引用した歌ですが、短歌がおおまかに5つのパートからなっているとしたら、これは「いままで」「報われなくて」「よかったな」「コブシが群生している」「道もよかったな」くらいで分けると定型っぽいですが、どこか違和感があります。「いままで報われなくて」くらいまででひと固まりなのは動きそうにない気がします。

風に、ついてこいって言う。ちゃんとついてきた風にも、もう一度言う。

この歌は句読点があるからさらに難しいです。おおよそ31文字なので、めちゃくちゃな句跨りの歌としてとることもできうる部分はありますが、句読点がそれを拒んでいるかのようです。

杖の専門店に行く。見る、握る、地面をトン、と打ち鳴らしてみる

かといってこのように、短歌の拍を強調するかのような句読点の使い方もありますし、一概に句読点を定型にあらがうために使っているとは言えません。

これは推測でしかありませんが、谷川さんの歌は基本的に「短歌っぽい長さ」があると思います。歌集を読んでいくことで、一首を読む長さというのはだいたい平準化していきます。その中で、定型で読み下すことが難しい歌があったとしても、「その長さ」で読めれば気にならなくなっていく感じは、あると思いました。そしてそれは、谷川さんに限った話ではないのだと思います。誰だって、「その長さ」をしっかりわかっていれば、こんなに軽やかにできるんじゃないか。こう思えたのが、この歌集からの技術的な収穫でした。だから、この歌集の破調の歌は僕としては少なかったです。もちろんありましたけど。なんとなく平準化されている長さから、あきらかにはみ出るものは、破調なんだろうなと思います。

あす、わたしは ゆっくりのぼる 不思議な毛虫を見送るだろう

歌集の中盤に差し掛かるころ、この歌と出会いますが、不思議と定型の歌のように読めていました。


とりとめなく書いてきましたが、一通り書きたいことは書けたので、終わりとしようと思います。最後に、今まで引用してきた歌以外の中から、好きだなあと感じた歌を、三首に絞って引用して、結びにします。

5年着てこんなところにポケットがあったのかって驚きたいな

友だちが来てテーブルをくっつける くっつけたテーブルの大きさ

虹色のリボンのついた盆栽をもう一度みてから思い出す


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