歌集を読む/鈴木ちはね『予言』

2022/11/06

歌集

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鈴木ちはね『予言』(書肆侃侃房)を前に読んでいましたので、その感想を書きます。久々の更新です。ひっそり地味に短歌をやらせていただいております。

書籍情報はこちら。2020年8月の発行ですね。

第2回笹井宏之賞の大賞を鈴木さんが受賞されたので、その副賞という形で出版された歌集ですが、個人的には2020年に出た歌集の中では一番すごいと思っています。僕も一応、第1回と第2回の笹井賞は予選を通過していたのですが、なんというか、自分の短歌じゃ受賞できないなと痛感したのを覚えています。「こういうの」がないとダメなんだなと。その「こういうの」を書いていけたらなとは。(ちなみに奮起して出した第3回笹井賞は予選落ちでした。人生こんなものです)


歌集を一読してまず思うことは、主体の自己完結度がとても高いなということです。以下、引用は全て『予言』の第二版からです。

品川の手前で起きてしばらくは夏の終わりの東京を見た

歌の言う「品川の手前」がどこを指すのかは交通手段によりますが、やはり東海道新幹線を想起します。のぞみだと、名古屋・新横浜間の長さに比べ、品川と東京の間の短いこと。この時間帯の、他のことをするにはもう降車が迫っているし、とりあえず見てしまう東京の街並み。見たくて見るわけではないかもしれないけれど、見れば夏の終わりを感じる景の描写がうまいと思います。

『予言』には、こういった主体による観察の歌が非常に多いです。そして、観察して終わりの歌も多いです。短歌である以上、読み手に届けるものはありますが、二人称的な相手に届けようとするそぶりはほぼみられませんし、比喩表現を用いた歌もかなり希少です。レトリックの力でポエジーを作り上げるのではなく、フラットな把握で現実に言及していく歌がよく並んでいる印象です。

とはいえ、主体自身の色がないかといえば、そうでもありません。

身をよじりながらうんこを出しながらここが個室で良かったと思う

この歌も自己完結度は高いものの、主体が持っているユーモアが滲んでもいます。歌が指していることは、トイレの個室という「あたりまえ」への言及で、あたりまえだからこそ、周囲から見られてもかまわない動きができるのです。当然どんな動きであってもうんこをしている姿を見られるのは困りますが、トイレが個室でなければ、大方の人は身をよじりながら排便することはないでしょう。何も考えていなかった社会の常識をさっと提示されることが、この歌のように、主体のユーモアと一緒に届けられることもあります。

主体が観察に徹すると、短歌から主体の存在感は視点以外の要素が抜けてくるものですが、鈴木さんの歌は、しっかり主体自身を残しつつ社会に言及しているのが特徴かなと感じます。なので、

一生分のうにを食べたと言いあって次の週にも食べたうにたち

のように、「生活のよかった瞬間」を切り取るような歌があっても違和感はありません。「次の週」に食べたほうが、前回と同じメンバーでの出来事かは書いてありませんが、なんとなくそんな気がします。みんなでたらふくうにを食べた、その出来事の翌週に似たようなことをやってしまった、そのことを含めてうにを食べたことが「よかった」になっていく感じに心が動きます。

海のたび海だと叫ぶ少年の目前にまた海があらわる

これも、良い瞬間の切り取りだと思います。この歌のあと、少年は結句で提示された海を見て「海だ」と叫ぶのでしょう。それまでの時間はとても短いはずですが、そこで切っておくことで一瞬が保存され、到来するであろう未来を眺めつづけることができる良い歌だと思います。

こういった、いわば「読者もうれしくなれる歌」も『予言』には入っています。とはいえ、鈴木さんの歌の真骨頂は、また別のところにある気がしています。


『予言』の刊行を決定づけたのは、冒頭述べた笹井宏之賞の大賞受賞ですが、鈴木さんの受賞作「スイミング・スクール」は、選考委員の間でも賛否が分かれている印象でした。染野太朗・永井祐に加えてゲスト審査員の長嶋有が高評価した一方で、大森静佳・野口あや子はそこまで評価していないのが、選考座談会からもうかがえます。高評価のほうは、観察が行き届いているとか、読めば深いものがあるとか、そういったものでしたが、低評価と言えるものを「ねむらない樹」vol.4(書肆侃侃房)より引用しますと、

野口 短歌の気持ちよくなる前の気持ちよさみたいな感じなんですよね。普通は定型にすることである程度気持ちよくなるのに、気持ちよくなる手前で止めて、それがずっと続いている。短歌ってなんだろうという感じになってくるんですよ。(以下略)

大森 (中略)ただごと歌の前の段階を出してるという感じで、どう読んでいいかあまりピンとこなかったですね。(以下略)

という感じです。ここで言われていることというのは僕もよくわかりまして、「スイミング・スクール」はふつうの短歌が「言いに行く」ところの前段階で止めているような印象はあるのです。僕がそれを思うのは、

五種類のクリーニング屋のハンガーがめいめいベランダに揺れている

あたりです。クリーニング屋を固定していないのかな、くらいのことは思えますが、それ以上のことは読み取れません。この歌は、この観察に対する主体の感慨がどんなものなのか分からないのです。観察があれば、それに対する感慨が分かるようになっているのが、いわゆる「短歌としての気持ち良さ」なのではないかと思うのですが、そういったところからは一線を引いている感じがあります。これは「スイミング・スクール」に顕著だなと思う一方で、『予言』全体にもあるものだと思います。例えば「スイミング・スクール」以外からの引用をすると、

最近はファミリーマートでりんごとかバナナとか白菜とか売ってる

あたりでしょうか。ともすれば、だから何?と言われそうですが、そう言われる余地は、その観察に対する主体の感慨が不明なところにあるようにも思います。そしてこの提示の仕方が、『予言』の、鈴木さんのほんとうにすごいところだと思うのです。

なぜかというと、上述の二首は、僕も「この歌から」多くを読み取れているわけではないのですが、この歌を読んだ後、僕は別のことを考えていました。

……五種類もクリーニング屋を使うことって確かにありそうだけど、そもそも行ける範囲にクリーニング屋ってなんで五軒もあるんだろう。あと、なんで微妙にハンガーの種類がちがうんだろう。言われてみれば、クリーニング屋って商圏かぶってそうなところに乱立したりしているな。でも商売が成り立っているんだろうな。というか、クリーニング屋って服を引き取ったあと、どこかに乾燥とかの作業を委託すると思うんだけど、それって結局一緒だったりするのかな?

……コンビニって確かにたまに野菜を売っているよな。りんごとかバナナはまだ、そのまま食べられるからわかるけど、白菜って調理ありきなものも売ってたりして、それって八百屋とかスーパーとかの役割だよな。でも売ってるってことは、需要があるんだよな。そこには卸業者の流通があって、それぞれの付加価値がくっついているんだよな。そのへんの流れってどうなってるんだろう?

こういう、自分ではよくわかっていない社会の動き方について考え始めてしまうのは、引用歌にきっかけをあたえられているからにほかなりません。そして、考えていると、普段は考えたこともない視点で社会を眺めることができて、自分が何気なく生きている社会のシステムが「ある」ことを意識できる。おそらく主体自身もそこまで意識はしている。そういう広い射程をとった歌が並んでいるのが、『予言』のすごいところだと思います。

本名がケンジの人が英会話教室でアイアムケンジと言う

例えばこの歌も、書かれていることはそのままですが、よくよく考えてみれば、別に本名をいう必要はないよなという事実があります。それは、「個人情報はあんまり出すものじゃない」という規範が背景にあって、とはいえ必要に応じて出すのは仕方がないという規範もあって、じゃあ「英会話教室」って「必要」なんだろうか? という、意識していなかった規範が働いている瞬間が、この歌には書かれていないんですが、それを考えることができます。そういう意味では、社会詠なんだろうなと思います。

ローソンとサンクスとミニストップが近所にあった 東京だから

鈴木さんがここで把握する「東京」が、『予言』で繰り返し現れる「歌に直接書かれているわけではないけれど歌を読んだら考えてしまう社会」なのかな、と思います。

このような射程の広い歌はたくさんありますが、ただ事実を提示するだけの歌のほかに、主体自身の固有の把握とくっつけて提示する歌もあり、それもいいなと思います。

いい路地と思って写真撮ったあとで人ん家だよなと思って消した

あるあるの歌としても読めますが、完全に意識の高い人であれば、写真を撮る前の時点で「人ん家だから」と思って撮らないのです。撮ってからその規範を思った、というところに、肖像権やプライバシー権といった「実はあいまいな規範」がある、ということを指摘できていて、僕はけっこうこの歌が怖かったです。だって、こういう写真って、どこまでなら許されるんでしたっけ?

図書館で借りた本は読まなくていい返しさえすればそれでいい

これは、人間の気持ちを考えればまちがっているわけです。図書館で借りた本は、読まなければいけませんし、図書館側も、読んでほしいと思って貸しているわけです。気持ち的には。ただし、図書館の蔵書の管理の本質という意味で行けば、この歌の通りなのです。そして、だいたいの人が経験したことのある、期限ぎりぎりまで読んでいなくてあきらめたことを思うのです。だったら本当に借りて読みたい人のところに渡してあげればよかったのに。それは犯罪ではありませんが、図書館のシステムが果たしている「読みたい」需要への答え方の本質を垣間見た気になります。

雪なのに律義にバスを待っている人たちの一員になるのだ

「雪」と「バス」の関係を思えば、運行に支障がでるかもしれないな、というところから、「それでも移動せざるを得ない人たち」のことを思います。しかも律義に列になって待っている。自分の前の人までがバスに乗れて、それ以降は運転休止になるかもしれないのに。もちろん、ただの雪なだけかもですが、そういう「それでも移動しないと」にかかっている生活が感じられて、これも社会のシステムの指摘だと思います。ただ、それを否定するのではなく、肯定しているのでもなく、フラットに受容するような姿勢が、より読者に論点を投げ込めているのかもしれません。


さて、ここまで『予言』の感想を書いてきましたが、個別に言及せざるを得ない連作がありますので、触れます。「感情のために」といい、初出は「よい島」という同人誌に掲載された百首連作です。なんと、平成28年に当時の天皇陛下が表明された「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」を分解して詞書にし、適宜挿入して約百首を立てているという大作です。大作であるがゆえに、語るのが難しいというか、試みに目が奪われて言いたいことが言えないおそれがあるなと感じていました。そのあたりを言葉にしていければなと思います。

誤解を恐れずに書けば、「感情のために」の短歌部分で鈴木さんがやっていることは、鈴木さんのほかの短歌と本質的に大きく異なってはいないと思います。ただ、上述のような社会への指摘のしかたという鈴木さんの手法が、この詞書の選択にビタリとはまっていることは間違いないとも思います。一首目を引用します(詞書部分は省きます)。

黒人を走らせるのは卑怯だと祖母が言い母も同調する

すさまじくいい、「世代」を捉えた歌だと思います。箱根駅伝などを見ていれば、どこの家庭でも起きうる会話でしょう。じっさい、外国人枠に限りがあるのは確かですから、この「卑怯」という言葉は、名目上は「日本人によるスポーツ促進」ではあるものの、オフィシャルに肯定されているものとも言えます。ただ実際にこれを「卑怯だ」と「祖母」は言えて、「母」も同調するという感じが、「自分」はどうなんだというところは書いていないにしても、世代の価値観の微差をきれいに捉えた一首になっていると思います。

詞書が、ある種の平成の終わりを予見させるようなスピーチであることもあり、この連作でも「平成」が振り返られています。その手法は、エポックメイキングな事件を振り返っていくものではなく、主体にとっての平成です。ただ、どこまでいっても連作中の時系列は「いま・このとき」で、ミクロに見ていけば、鈴木さんらしい歌の集まりなんですが、連作として見れば、引用した最初の歌が「世代」を捉えているように、ひとつの時代に言及しているように機能していると思える、そんな一連です。

喫煙者の肺の写真を見せられても感情がないので効かないぞ

効くんですけど、というユーモアもよいですが、タバコってあんなに危険性を表示しまくってもなお「売ってる」んだよな、ということに思いを馳せざるを得ません。このへんの社会の指摘も、平成という時代に結び付くところがあると思いますし、社会の変遷に対する追憶めいた意味合いもあるように感じられます。それは、この連作として立ち上げているからこそ付与されるものでしょう。

ところで「感情のために」というタイトルは、次の一首による(あるいはタイトルがあってこの一首が書かれた)ものと推測されます。

感情のために何ができるだろう 東京の地図にある空洞

この歌は、主体の平成に対するひとつの印象のまとめと言えそうですが、この歌集の主体のスタンスにも近しいものがあると思います。社会のシステムとか、規範とか、そういう大きなものは、理屈があって動いているものですが、その理屈が十分に理解されて回っているとは限りません。引用した図書館の歌のように、感情による理屈が別に付与されているともいえるような状況もあるはずです。もちろんこの歌は、第一には、生前退位の意向を示すにも憲法その他もろもろの規制でままならない天皇陛下に言及しているものと僕は読んでいますが、社会は、規範は、感情を救わないんじゃないかと広く捉えれば、『予言』に収録されている数多くの歌の視点がより理解できるような気がするのです。


長くなってきたので、もう一つだけ言及して畳もうと思います。僕が思う鈴木さんの短歌の特質は述べてきた通りなのですが、その手法として、追憶とその短歌化による保存めいたものを強く覚えます。それはそのまま、鈴木さんの「自分の記憶」に対するスタンスでもあるように思います。

自転車は昔なくしてそれ以来持っていなくて銀の自転車

歌集の冒頭歌です。結句の「銀の自転車」がまぶしいですが、これが「昔なくした」自転車なのだろうと読むと、これは記憶の中の自転車です。追憶、郷愁といったものを感じますし、記憶の中にとどめているものを愛でているようにも読めますが、僕はこの「自転車」が、細部を思い出せない、若干抽象化されつつある自転車のように思えました。記憶というものは残ってくれますが、その残り方をコントロールするのは難しくて、いつのまにか褪せている。そういう部分までわかった上での歌なんじゃないでしょうか。

どんぐりを食べた記憶があるけれどどうやって食べたかわからない

こういうことって、あるのです。どんぐりを食べるというと奇妙な体験ですから、どうやって食べたかも含めて覚えていそうですが、例えば「どんぐりを食べたことがあります」と話すだけを続けていれば、ほんとうに自分にその事実しか残らなくなるような。記憶って、こういうことだと思うのです。

川沿いを歩いているとどうしてもいろんなことがもうずっと前

歌集最後の歌で、追憶の歌ですが、この「ずっと前」として把握している「いろんなこと」の解像度についても、僕は思いを馳せられるなと思いました。

最後になりますが、引用していない歌の中から特に好きだったものを三首引用して、結びとします。

新幹線の田んぼの中の看板は実際行けば大きいだろう

車椅子をばこんと開く そういえばこんな気持ちがあったと思う

日本がまた戦争をやるとして勝つイメージが湧かない 大変だ


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